にゅうろん?

http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20030503 と
http://d.hatena.ne.jp/nazoking/20030504 から
非常に面白いほうに話が展開している。

で、id:nazokingさんのご教示によるこのサイト
http://www.googlism.com/
どうやら、よくわかってないのだが、googleから、英語で、検索した語について、定義の形になっている文章を拾ってきて表示しているらしい。
なるほど、これは辞書としては最強かもしれない。

rss

うーん、htmlって入れ子になってる場合の扱いが、なんか、parserって、タグで分割してるだけで、階層構造を認識してないっぽいので、あー、でもかいそうこうぞうをにんしきしてオブジェクト化してくれるのって、xmlパーサーか、でもそれだと、読み込みのとき、入れ子が変なhtml書いてる場合はなりたたないんだよな。要するに、rss生成の場合、頭を使うのは正規表現のところだけなんだけど、そこがいちばん難しいというか、テンプレートになにかを埋め込んでもらって正確に認識するようにするしかないのだろうか。いちおう、はてなtDiaryはそれなりにストリクトだし、スタイルシートのことを考えてclass属性がはいってるせいでかなりセマンティックだから楽なんだけど。それでも、

 なんで、終了タグはclass属性やid属性がないのだ。入れ子の認識が大変じゃないか。規格決めたやつでてこい。

 瑣末な語句の詮索

 スコラ的な瑣末の語句の詮索という言い方は、感情に訴えるだけに俗情と結託しやすい。ある事柄が瑣末な、つまり、自己目的化した議論であるかどうかは、かかって場合による。なにが瑣末でなにが大事かは、その語句が存在する社会的効果の磁場によって決まる。

 ユダヤ人であることが生命にかかわる社会では、ユダヤ人とは何者かということは、きわめて重要事で、その政治的、社会的磁場にいない人間にとってどれほどばかばかしい瑣末事でも、現に瑣末なことではなくまじめに議論するに足る問題だ。

 同じ事は、現在のイスラエルにおいて、イスラエル人とは誰か、という問いのきわめて先鋭なアクチュアリティについてもいえるだろう。イスラエル人であること、ヘブライ人であること、ユダヤ人であること、どの語句を選び、どんな意味を与え、そして具体的にどの範囲の人々に、どんな権利を与えるか、これは比喩的ではなく死活問題である。(具体的にはhttp://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0398.html

 同様に、現在のアメリカでも、アメリカ的とは何かということは、非米的とみなされるがゆえに排斥される風潮の中ではきわめて論議を呼ぶものだろう。テロリストという語句の定義は現実政策において、また社会的な思想でどういう立場をとるかにおいて、きわめて重大事だ。そしてそれは傍目にはきわめて瑣末な詮索になることは、十分にありうることなのである。

 政治的、社会的な、感情に訴え、また、実際に社会的な権利の範囲や排除にかかわる語句の意味を考えることは、けっして瑣末なことではない。またそういう意味があたかも社会的な現実の議論以前に定まっているという考えは、社会的な現状の受容を意味するだけである。言葉の意味はそれが社会的に受け入れられる程度に応じて、きわめて現実的な効果をもつことを忘れるべきではない。

検索エンジンへの登録 むかしむかし 個人的に

むかしというわけでもないけど、ジオシティがyahooと合併して著作権騒動でごそっとひとがいなくなるまえぐらい、いまよりはるかにジヲ率がたかかったころ、ひとはリードミー登録と検索エンジン登録に明け暮れたものでした。

て、もっとまえのこととか、そのころすでにあったコミュニティのことは知らないので省略。

要するにですね、google紀元前には、100までいかなくても十幾つの検索エンジンに、しかも一度だけではなくて、周期的に登録して、という行動スタイルがけっこう存在したわけで、そのころの封建遺制がカウンターだったりします。

なぜか。答えを先取りして言うと、いまよりもずっとwebがセマンティックじゃなかったからです。言い換えると、意味論的に構造化されてなかった。だから、意味を考慮しない単純検索しかなかったし、yahooの存在意義は巨大だった。

逆にいえば、現在の新来者がそういう消耗的な、いわば無限の無意味な空間に瓶詰めの手紙を流すような、スタイルをとらなくていいのはなぜでしょうか。

ひとつには、実生活の知人のページとリンクする、そうするとその知人はすでに何らかのコミュニティ、までいかなくても相互リンク空間に属しており、という連鎖が成立するからです。しかし、これって、ページ開設者の人口への比率がある敷居をこえないと、発生しない循環なんですよね。だから、それ以前は、本当の他人同士の関係からはじめざるをえないことがいまより多かった。(気がする)

また、カウンターという制度が意味があったのも、抽象的な数量以外のレスポンスが欠如していたからです。(つまりこういうことです。はるかに、ROM率が高かった。というかレスポンスする人の絶対数が少なかった)

だからなんだ、というと、いや、ちょっとどこかで書いておきたかっただけなんだけれども。

流言

流言を肯定も否定もせずにであろうと流すのに荷担する行為は、その流言が他者の名誉を傷つけたり、不当に攻撃的なものであることを承知してやるのなら、当然、その流す行為そのもの正当性が問われても、まったく当然だということは、いまさらいう必要もないことだけれど、ちょっと付記しておく。

rss/rdf

 この日記のrssを提供しました。もとはこれ。
 http://printf.net/perl/create-rss.txt
 ライセンスとかがよくわからないので配布はまだしませんが、いちおう、はてなの日記で、自分のcgiがおけるスペースをもってるひとは、簡単に設置できるようにこれから改変したスクリプトです。
 ただし、更新のタイミングでrssも更新とかできないので、手動。
 左上のrdfアイコンです。