後始末的に

http://deztec.jp/design/index.html
セクションアンカーがないよう。
http://www8.big.or.jp/~vid/Diary/?date=20030519

もとい。なんかあまり実のある方向の話ではなかったので続ける気はかなりないのですが、というのは争点になってる差異に拘泥りがあるわけではないからなのだけれども、ぼくの視線から大雑把に云ってしまえば、データが意味を自称しないということそのものはぼくも認識していて、ただあのトラックバックリンク元表示機能と違うという文脈では、ユーザーにとっては、データが意味を自称するかのように経験される。(技術的知識のある人間にとってはそうではないにせよ)そのことがリンク元表示機能との違いであり、利点である、ということが言いたかったわけで、そのことがそういう表現をしたことの弁明として理解してもらえればいいわけで、データが意味を自称するという言い方がそこで適切だったかどうかについては、厳密にいえば不適切には違いないけど、あの文脈で、そういう本当にデータが意味を自称するという誤読を誘発するような危険があっただろうかというとぼくには否定的に思えるということです。
 だけれども、実際に議論を誘発したからには、ベストの言い方ではなかっただろうし、失敗だったことは認めます。

 あと、リンク元表示機能とトラックバック機能との違いをいうとき言葉遣いにずれが生まれたのは、ぼくは表示のされ方からトラックバックの使用まで含めた、ユーザーの使用感にのみかかわる「機能」の話をしていて、トラックバックの仕組み、その実際の実現方法、バックエンドをおもに頭において話しているのとずれたんだろうと思う。ぼくはガソリン自動車の話ではなく、ユーザーの経験する機能、使用感、概念としての「自動車」の話をしていたので、そのかぎりで、それがディーゼルでも電気自動車でも関係なかった。だから「自動車って便利だね」「いや、自動車は排気もすごいし高いしね」という応答のような微妙なずれが生まれたんだと思う。つまり、「自動車」のレベルからそれを便利だといってる立場から言えば「現状の具体的なその実現としてのガソリン自動車」の不便は、また別の話で、両立する話なわけで、自動車一般の便利さはどうかという話とは違うわけです。つまりこのレベルでは、自動車というのは魔法で動いていたってかまわない。

で、データが意味を自称するという言い方をしたとき、ぼくは実際にはHTMLへの表示のされかたというユーザーにとって経験される現象面のはなしをしていたのだけれど、あいまいだったために、あたかもバックエンドでのトラックバックの仕組みのはなしのようにとられてしまった。ここがミスだったように思う。たしかにデータは意味を自称しないし、そのことは、実際に、データが解析される過程において、バグとしていろいろな結果を誘発しうる。でもそれは、ユーザーにとってブラックボックスでおきることで、ぼくが考えていた抽象レベルでは関係ない話だったんですよ。自動車は故障するけれども、そのことが自動車は人間を運んでくれるから便利という議論への反論としてはずれているでしょう。自動車が必然的に無視できない頻度で故障するならともかく。つまり、この概念としての自動車についての話は、自動車が発明される前にもできるレベルの抽象度の話なわけです。こんな機能あったらいいなという。

能動受動へのコメント。
言葉遣いに云々するのはあれだけど、能動的に送るのは送り手で、受動的に受けるのは受け手で、受けてはどっちにしたって受動だし、送り手はリンクの場合でも「受動的に」送るわけではないので、能動的に送る、受動的に送る、の対じゃないと変では、というところに突っ込んだわけで、能動受動という能動性の差異に注目することに突っ込んだわけではないですよ。能動性の度が少なく送ることを「受動的に送る」という言い方は気になる、という話です。あるいは、受け手の側から見ても、「能動的に受ける」「受動的に受ける」という対は変ということ。能動的に受けるって、つかまえにいってそうな感じだし。

まとめ。
多分、ぼくもひきずられて途中でそういう議論をした部分もあるんだと思うんで、こっちにも問題があるんですが、ぼくのもともと書いた文章の意図としては、コンピューターが、という話のモメントはないわけで、手書きでトラックバックを手紙で送っても同様のことをぼくは主張したでしょうから、ユーザーの視点で、ブラックボックスの部分は、自動的で一義的に進行する、という仮定が暗黙にあったわけです。だから、サイトの人がトラックバックの解釈機構をいじって送り手の意思とはちがう表示をさせた場合、たしかにデータが自らの意味を指定できない側面(ついでに指摘しておくと、データが意味を自称できないということは、文が自身の解釈を決定できないというウィトゲンシュタイン的テーマですね)があらわになります。
しかし、トラックバックという機能がその想定例ではもはや機能していないわけで、そういうルール違反をしないという規約に双方が従う、という「振る舞い」もふくめての意味でのトラックバックという機能を体験することの意味は、リンク元による言及通知を経験することの意味とは異なる、という論拠にしたわけです。だからやっぱり、ぼくが、言葉としてトラックバックというのを、トラックバック機能の使用の意味でつかっているところが、一番のずれの原因だと思いました。

コロンビアとキューバ

http://www.jca.apc.org/~kmasuoka/places/col157.html
大英帝国アイルランドにしたことは、その後、ほかのすべての植民地にとって先例となった。そういう意味で、アメリカが今までアメリカ大陸の国家にどういうスタンスで臨んできたか、ということは確認しておく価値があると思う。

http://www.ops.dti.ne.jp/~cactus/american_area.htm

directory wiki

メモとして。
共同作業のためじゃなくて簡単発行ツールとしてのwiki

1 wakkawiki式のページ所有権の概念をつける。譲渡、開放も可。

2 ページに階層性を導入し、所有権は下の階層に継承。(自分の階層以下にしかページは作れない)
wakkawiki式の権限管理ではいい感じの名前をひとに独占されるという問題が発生する。(ページ所有権は作成者にまず与えられるので)なので、名前空間を階層性で分ける。最上層はサイトオーナーの所有。

3 日記機能をつける。具体的にいうと、パラグラフ更新と、自動で過去ログページに切り分ける機能。
3 2 日記ページのwikiネームは所有者名+数字
4 wikinameへのリンクは、ページそのものではなく、そのwikinameをもつすべての階層の(そしてintaerwikiに登録してあるページも)リスト。ただし、長く指定すればそのページに直接行く。該当ページがひとつしかないときはもちろんそこへ。

これって、簡単ホームページレンタルCGIだとおもう。実装は難しくないはず。
あと、階層性の導入は、interwikiとシームレスにできるのでいいかも。

あ、ちょっとまて、ディレクトリの権限の問題があるな。うーむ。
とりあえず、UNIXをモデルにして考えるということで。
でも階層が深くなる意味もないな。
でもそれだと権限をひとに委譲すると美しくないな。
権限は譲れないことにしよう。開放できるだけ。
けっきょくwikifarmだなあ。

訴えてやる!

http://d.hatena.ne.jp/koseki/20030517#p4
 法律というのは、最後のぎりぎりで出てくるべきもので、話し合いをそれ以前で拒否するのは、市民としての自治精神の欠如だと思う。法がまず出てくるということはそれ自体としては悪いことではないはずなのだが、その効果として、話し合いそのものの意味を無化してしまう。つまり、暗黙のうちに話し合いをする気はない、というメッセージになる。
 また、企業なんかの相対的に有力な存在が、相対的に無力な個人を訴える場合はなおさらだし、ましてたとえば相手の無知に付け込んで脅しつけるのはもってのほかだろう。法が必要な場面は常にあるけれども、安易に法に訴えるのは、権力の介入を強めるという意味で好ましくない。
 もちろん、法に訴えても裁判という形で公正は担保されるはずだから、訴えることが脅しになるとは限らないはずなのだが、現実には訴えられることそのものが不利益になる場合というのはつねにある。
 おそらく、問題は、対話への意欲が全般的に社会から減りつつあるということなのだと思う。対話なき対決は、既存の選択肢の中からどれかがえらばれるだけで、生成や両者の生産的変化という結果を生まないので、どうしたって不毛だ。避けられるなら、それに越したことはない。すでにただしい答えを所有しているという考えはそうした意味で人を堕落させる。

社会学

http://www.rku.ac.jp/~sawaya/gakushi/hist3comte.htm

社会学がキーワードになってた。
なんかぼくが左よりのせいか、社会学の理論は現状維持に使われがちという印象が。
コントというひとは、人類教とか、面白い人ではあるようです。

まあ、学問なんだから無駄に批判的でも駄目なのですが。

もっとも、あることが成立する理由を説得力あるように説明する議論は、つねにそれが必然であるという風に説く議論として誤読されうるし、また多くの場合そのような印象を与える、ということは確かで、このことはつねに注意されていい。

たとえば、あるひとがあることをした理由を理解すると、あたかもそれが必要で避けられないことだったかのように感じてしまう。また、歴史的事情を知れば知るほど、その出来事を批判できなくなる。だけれども、実際にはつねにそうでない可能性が潜在性としてあったのであり、わたしたちは結果からさかのぼってものを見るからそう思えるのだ、ということを考える必要があって、だから想像力とは本当は、本当にそうなるしかなかったのだろうかと考えることだと思う。

実現しなかった、しおれた歴史の中のつぼみたちを花開かせること。

イラクの現状

http://blogs.salon.com/0002515/
http://www.excite.co.jp/world/url/body?wb_url=http%3A%2F%2Fblogs.salon.com%2F0002515%2F2003%2F05%2F17.html&wb_lp=ENJA&wb_dis=2
「米国および英国は、イラク人の率いる臨時政府を無期限に延期することを決定しました」


1. As per the NYT, the US and Britain have decided to indefinitely postpone a provisional government led by Iraqis, and no date has been set for an "interim authority" (the nature of which is undetermined). Bremer's going to talk with the Iraqi opposition guys in a couple of weeks. No council meeting to work on an interim government. Nothing, nada.
 こまりましたね。

がくもん

http://www.h.chiba-u.ac.jp/bunkashi/lesson.html
ところどころレジュメが掲載されてて面白い。
http://www.h.chiba-u.ac.jp/bunkashi/bungaku_p/bungaku_p02.html
とか、
http://www.h.chiba-u.ac.jp/bunkashi/bunkaron02.html
とか。
とくに、サン・シモンが個人的に気になってる。
日本は社会主義だったと(批判的に)いわれるとき、意味されているのはある種のサン・シモン主義なのではないだろうか。テクノクラートの支配による産業第一の権威主義的体制。つまり、いわゆる開発独裁

http://www.arsvi.com/0e/0.htm
これ、すごく充実した資料。

ついでに豆知識

社会主義Socialismのsocialは社会societyの形容詞ではなく、助け合い/協会の意味のassociationの形容詞。どちらも大本にさかのぼるとラテン語socius、仲間、つきあい、なにかをともにすること、から。基本的には自由主義に対比して、相互扶助を強調することを一般的に指した。つまり資本主義の競争万歳へのアンチテーゼ。この本来の意味では、中央集権とか国家主義の意味は全くない。自由主義がもたらす社会的不平等の被害者をどうやって助け合うか、というところで、いろんな思想が分かれて、そのなかに、ボルシェヴィキ的な国家主義も出てくるという話。

バラエティと仲間受け

http://6519.teacup.com/kenmogi/bbs
いつもながら鋭い分析。

笑い声とスタッフ受けという構造のぼくにとって先駆者に思えるのはやはりとんねるずです。或る意味で、日本は異物にどんどんきびしくなってきているので、これは笑っていいことなんだよ、とテレビの中の人が「許可」してあげないと笑えないという、奇妙な臆病さがうまれているように思います。

あと、いくらなんでも「笑う犬」はつまらないお子様向け番組なので現在のバラエティの代表にするのはかわいそう。とんねるずウッチャンナンチャンネプチューンというのは、とんねるずはたまに面白いものの、やはりバラエティ志向の穏健で仲間受けの笑いの系譜で、非常に内輪な感じがする。

内輪な笑いというのの中には、こんなことまでしちゃったよばかばかしい俺たち(でもなんとなくうれしい)というような自己確認、仲間意識の確認という側面があって、脅威・驚異としての笑いを知っているものには物足りない。現在ではすっかりつまらなくなったダウンタウンだが、その最盛期には破壊的な笑いをつくっていた。いま考えれば、それはバランスが期せずしてとれていたがゆえにまだ観客と回路があったからだと思う。

法と対話

http://deztec.jp/design/index.html
 常識や道徳が共有される部分がずれてきているからこそ、対話が必要なので、そこでそこに混乱があり困難があるからといって、対話を欺瞞とみなしたり無用とみなすことには賛成できません。法やその実際の効果としての裁判が、つねに正義を行うとは限らない限り、裁判では負けるかもしれないと考えたり、裁判になること自体が勝ち負けに関係なく迷惑だと考えたりすることが、そのひとに「理がない」ことになるとも思いません。
 あたらしい観点からふるい観点では無法に思えることが行われたとき、あるいは新旧ではなくそういう意見の違いがうまれたとき、法が現実に追いついてない場合だって考えられます。問題なのは、たしかにそれでも法は最終段階では従われなければならないにせよ、相互に理性的話し合いが可能であれば、そこで合意を形成する努力をすることが必要だということで、わたしは、そもそもいざとなれば法に訴えるというのはいざとなったときにいえばいいことであると思います。
 とくに民事では法的判断は、双方が譲らない場合の判断をするもので、双方が譲ることそのものは合法的な行為であり、多くの場合はそうすることが期待さえされているわけで、一次的には当事者の合意が、裁判した場合とことなる結果になったとしても、それはそこで違法なこと、あるいは不適切なことがおこなわれたわけではないわけです。

 (勿論、現実的な権力関係で合意が強制されるような場合は別で、そういう場合こそ法や権力が介入すべきですが、それは個別の場合を見る必要がありますし、その場合でも対話の必要はなくなるものではないでしょう)

 個人同士の軋轢に、権力の介入を安易に要請したり、そうした軋轢を解決するための合意やあたらしいコンセンサスを形成する努力を怠ることは望ましくない、ということです。また、負けるかも知れないしそうでないかもしれないという微妙なケースでは、双方が対話を忌避し、一方が法的手段に訴えると言い放った場合、無理がとおる場合が、つまりそれはたしかに、自分の法的正当性を見積もりそこなったせいではあるでしょうが、かなり起こりうるわけです。とくに相手の法的知識のすくなさにつけこむかたちで法的脅しというのは行使されることが多いのですから。