嗜好/指向

http://macska.org/index.php?p=48
http://tummygirl.exblog.jp/
id:HODGE

セクシュアリティをめぐって進行中の論争。

ちゃんと通読していないので印象論の域を出ないのだけど、メタファーというかカテゴライズというか、セクシュアリティを何といっしょにくくる形でかたるか、ということが不可避的にはらんでしまう(と、思いっきりジェンダー化された比喩を使ったりするわけですが)政治性の問題、だと思う。そこで、選択性や自然性みたいなあたりの論点が提出されてる。

本論には立ち入らずに、自発性や選択性という論点では、id:ueyamakzkさんが考えている引きこもりのことを連想した。もちろん、これはこれで、或る意味、一般化して受け取ることで話を中性化してしまうことでもあるんだけど。

まあ、こういう比較というか連想を書くこと自体がひとつ問題的というかそれなりに意味を持ってしまいそうでもあり、それほど深い意味があるわけではないのだけれど、セクシュアリティは難しいよなあ。

とりあえず、社会的に構築されているということはどういうことか、そして社会的に構築されていると言う、語ることはどういうことか、という論点には注目したいところ。構築されていると語ることで、たしかに、その自己への「根付き」が、すくなくとも効果として軽減して評価されてしまう面があることは了解できる。自己そのものがそのもっとも奥深い根において構築されているのだ、と語ることは、そのような批判にたいして、有効だろうか。あるネイティブさ(生得性)を、根拠として抵抗することはつねに有効というか局面においては必要でありつづけてきた。

と、そういえばid:tenkyoinさんがマーク付けの両義性について語っていたっけ。

まあ、こっちに展開すると、微妙にというか、もはやぜんぜん違う方向性のような気もしてはくるんだけど。主体の不可分な構成部分としてセクシュアリティを主張することで、逆に、そのような本質的属性をもつものとして主体を構成し、その主体の名において、抵抗が組織される局面で、主体の本来的統合性(の言説)を解体し脱構築する言説が、肯定されうるのは、どのような意味でか、というようなことなのかなあ。

こういうのはやはり情勢論抜きに論じても仕方がないんだろう、とも思うわけだけど、それはよく分からないからなあ。そういえばメアリー・チェイニーはその後公的になにかコメントを出したのだろうか。

追記

この論点は
http://d.hatena.ne.jp/jouno/20040711#1089491206
で言及した、
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/aasja/archives/POR.htm

本質主義批判にまつわるポリティクスも関係してきそう。

はてなダイアリーへの要望

id:hatenadiary
日付指定のない「トラックバック」を別扱いにしてほしい。

日付指定のないはてな内部トラックバックは、はてなの独自実装の名残なわけですが、これって最新の記事に記録されるわけですが、これは読者にとってそこからたどると、関係ない記事に飛んでしまう。これは明らかに欠陥だと思うわけです。

またもうひとつ問題を生じさせているのは、飛ばす側が過去記事を編集すると、またトラックバックが飛ぶ。そのとき、またその時点での最新記事に飛ぶので、かつての最新記事に記録されたものと、あたらしい時点での最新記事に記録されたものと重複して飛ぶ。そしてどちらも、その最新記事を読んだ人がリンクをたどっても、関連記事には行き着けない。たしかに、記録された、言及された日記にたいして言及した記事には行き着けるのですが、この言及は、その言及のトラックバックが記録されてる最新記事と内容的には関係がない。

なので、この「トラックバック」をほかのトラックバックと並列して表示しない、かつ、モジュールでそれだけリストする、というふうにしてほしい。

あるいは、日付指定なしの場合は、リンク元でわかるのだから、飛ばさない、というのもありだと思う。ただ個人的には手軽な連絡方法という意味合いからは、残すは残してほしくはある。

というわけで、同意見の方は要望していただけるとありがたいです。

生得性の修辞学

実存的な問題意識としては、生得的にアイデンティティにとって本質的であると意識されている属性は、明らかに、「手放しうる」あるいは、「手放したことによってどうしようもなく自己が毀損されたと感じるようなものではない」属性とは違う。この差異は、社会構築的アプローチによる規範的階層化への批判によって「見過ごされ」るのだろうか。

しかし、勿論、何がそのような「本質的」属性であると意識されているか、ということは、個によって異なる。そのため、何が「本質的」属性であるかということを、規範化し、一般的に語ることは、それ自体、ひとつのあらたな階層化であり、抑圧、規範の再構成として機能するに違いない。

そして、もうひとつの問題は、この「本質的」であるという意識を「生得性」という修辞によって表現することの問題。天賦人権のように、「生得」であることは、「根拠」であった。

さて、ここで、ここで括弧に入れたような諸語句を本質主義批判によって解体することは、コンテキストを意識しないで遂行されれば、そのような語句が代理的な形で、つまりゆがめられた形ではあれ、しかし、何らかの形で媒介していたプロブレマティックを、意識不可能(無差異)にしてしまう危険というのを、伴う、ということは、事実であるように思う。

ここで、そうはいってもあいまいな中間的、位置付けられないアイデンティティを擁護するためのものとしての本質主義批判の意味というのは当然、保持されなければならないわけで。

もちろん、ぼくにはHODGEさんの批判にかかわらず、tummygirlさんはそのような危険に陥っている、とはおもわないのだけれど、それはそれとして、この危険は重要な論点だと、思うわけです。

追記
うーむ。なるほど。
一方では嗜好という言説が指向によって政治的な階層的位置を割り当てる体制に対して、ポジティブな返事を返してしまう響きを帯びる。ある種の悪魔払いというか中性化。