声の名残、散乱の海

 苦しみから意識をそらせてみれば、かれは森の中にいた。苦しみは実体がなく、まるで内臓の不調のようで、先鋭ではないが去ろうとはせず、そして、得体が知れなかった。森は美しい多様な緑色で描かれていた。音楽はない。風もなく、指針もなく、北極星もない。あるのは、半端な苦しみだけだ。苦しみは意識をそらせ、かれを現在に、なかばしか存在させない。まるで、何もかもが、当座のもの、いい加減に、別のことをやりながらのようで、かれは自分が今そこにいる森が、まるで遠いもののように、憧れの対象のように心に映じるのを、どうしようもできない。

 ……そうじゃない。判断の基準がないんだ。どうすればいい。だめだ。ばらばらだ。

 筋の通らない切迫感に惑乱して、かれは不用意に踏み出した。地面はこれも無数の多様なこげ茶色。枯葉の堆積の中には、何億種もの虫がいる。その一瞬の想像に怯え、その怯えに無関心な森の静けさにかれは圧倒された。踏み出した足は柔らかな腐葉土に足跡をつけた。子供のように、それが新鮮に感じられて、かれはもう一度足跡をつける。踏みつけ、枯葉を乱し、並べ、キャンバスのように、まるで親しい女の肉体のように、その感触と戯れる。

 すると、猫がいた。瞳の黄金色の黒猫は尻尾を揺らめかせてかれを見つめていた。考えていることを測ることはできず、迷信的な恐怖と好奇心と、美しさへの賛嘆の念がかれを襲う。話しかけられるのではないかという恐怖がそこには色濃く溶け込んでいた。見られること、話しかけられることへの意識が、よみがえり、息の詰まるような感じを与えた。すると猫はついとあらぬ方へ視線をそらし、ほっとしたかれが思わずため息をつくと、そのときにはもう視線を戻して、かれのその反応を、物を見るように眺めやった。なぜかかれは失望した。ただしそれは自分への失望だった。まるで、試験に失敗したような、それは感情だった。

 永遠だか、数分だかが、たいした意味もなく経過した。猫はゆっくりと近づいてくると、かれのあしをしげしげと眺め、そして、やおら、意外と大きな口に剣呑な牙を見せ噛み付いた。かれは痛みよりも、意味がわからないという感情に支配されて、がっちりと噛み付いたまま動こうとしない猫を見つめた。だんだん、じんじんとした痛みが実感されてきて、とりあえずかれはあしを振ってみたが、猫はあしと一緒に振り回されるだけで、離れようとしない。どうすればいいのだろう。かれはあっさりと途方にくれた。

 仕方がないので、かれは、あしに黒猫を付属させたまま歩き出した。いつか、勝手に離れてくれるかもしれない。ずるずると噛み付いたまま猫は引きずられているが、苦にする様子もない。しばらく、獣道なのかもしれない、比較的木のならびがまばらな場所を歩いていると、目の前に明るみが見え始め、広い場所に出た。そこには、想像したとおり、一軒の小屋があった。古びた、みすぼらしいもので、人が住んでいるかどうか、いまひとつ判然としない。思わず、足元の猫に、かれは、問うように視線を送ったが、猫は噛み付きに余念がない。

 ほかに思案もないので、無策にもかれはドアへと漫然と近づいていった。ドアの周りには巻き割り用の切り株と、物騒な斧が放り出してある。井戸もその近くにあったが、なんだかそのことにかれは違和感を抱いた。上を見ると、蒼穹がどこまでも輝かしく、森のなかに切り取られた空間からのぞいている。

 不意に乱暴にドアが開いた。「で?」ひどく不機嫌そうな老婆だ。鼓動が早くなる。「そこ、邪魔なんだけどね」あーとかれが何とか何かをいおうとすると、不意に後ろから一人の奇妙な、どこか見知らぬわけではないような人物が現れて、勝手に返事をした。

 「ああ、すいません。私たちはこの先のランコイアからやってきた旅行者なのですが、森に入り込みすぎて公道を外れてしまって困っているのですよ。もしよろしかったら、一夜の宿をお借りできないでしょうか。いやなに、怪しいものではありませんよ。きちんと御代もお支払いしますよ。困ったときはお互い様ではありませんか。ゲデオンの神々もよそ者も歓待は千の千倍も来世では報われるとおっしゃっていることですし。いえいえたいしたものは要求しませんよ、辺鄙なところでご不便でしょうし」

 なんとなく、いやなやつだな、と思いながらかれは男の饒舌を傍観した。男はかれと同年代で、目の前のものを面白がっているような、人によっては不愉快なと評すであろうし、また別の人は愉快そうなと評するであろうような様子で、身に着けた旅装はくたびれていたがだらしなくはなく、むしろいかにも「らしい」という感じを与える。

 はじめて、かれは、ここはいつで、どこなのだろうという疑問を心に抱いた。

 「あんたは?」 うかうかとぼんやりしていたかれに、老婆はあごをやって指差す代わりにして詰問した。「人事みたいにしてるが、あんたは何なんだね。地面から今生まれたみたいな顔で突っ立ってこの御仁の言いなりになる気かね」

 「いや、その、ええ。そんな感じです」

 老婆はまじまじとかれの顔を珍しいもののように見つめ、それから何か諦念をこめてため息をつき、不意にきびすを返した。

 かれは一心不乱にいまだ噛み付いている猫を引きずりながら老婆についていった。


 「それで、あなたはどういう人なんですか」
 男はヨルと名乗り、ただの旅行者だ、と強調した。これは何語なんだろう? かれはまた奇妙な疑問に襲われた。それは簡単に答えられるはずの疑問であり、そもそも疑いが生じる余地などないはずの問いだった。まるで、何語でもなく何語でもあるような言葉が、存在しうるかのように、そのことに違和感を感じてしまったことにかれは、後ろめたさを感じた。愛想のよい旅行者ヨルは、それ以上のことをほとんど語らなかったが、国や時代を特定できるような特徴は、あるようでもあり、ないようでもあった。かれの語りは矛盾しているようでもあり、何かひとつキーさえみつければすぐに理解できるようでもあって、ランコイアというのはどこかの国の地方都市で、あるいはなにか小岩のような漢字を当てる日本の都市なのかも知れず、そのことすらさだかではなかった。

 ……いま、わたしは何を考えたのだろう。何か奇妙な齟齬がそこにはあったようだった。かれは薄暗い小屋の中に意味不明に噛み付きに固執する猫とひとりの胡散な男と老婆と座っていた。窓はあったが、光はあまり入ってきていない。だがなぜか、屋根の下はかれにとって心安らぐものだった。壁によって取り囲まれていれば、みられることが少ないからだ。それはかれ自身の想念のようでもあり、何か遠い啓示のかけらのようでもあった。

 困ったな、と思ったとき、不意にヨルが闇の中で口を開いた。

 「夜までは間もあることですし、話をしましょう。」

 旅行者ヨルは、こうして第一の話を語った。

 ……わたしはかつて一匹のネズミと相知っていました。(この言葉を聞くと、依然として噛み付きながらではあったけれども、黒猫がぴくりと耳を動かした)まったくけちなネズミでしたが、しかしただ勇敢であるということだけは否定できない、変わったネズミでした。このネズミは、問われるたびに別の名前を答えるので、結局私は本当の名前を知らずに終わったのですが、もしかすると、それこそがかれの何か理由の知れない矜持の表れだったのかもしれないのですが、ともあれ、このかれと私は、或るとき、ひとつの賭けをしたのです。