アンティゴネー

 もう一度。もう一度だけ、アンティゴネーという自殺した女について語ろうと思う。
 それに、一度目のテキストは紛失してしまったことだし。(「アンティゴネーの記念に」)

 http://www.gutenberg21.co.jp/antigone.htm

 同朋に背いて他国を引き入れて王位を狙って敗れたものの埋葬を禁じる。それはまさしく政治の論理で、情緒的にひとは反発するかもしれないが、共同体というもののなかでの理非曲直、大義名分、今後みなでうまくやっていく、そういうことを考えれば、普通は拒否し得ないたぐいのものだ。しかし、アンティゴネーは背く。

 神々の掟という。人の世の、人のための掟の手前にある、その掟が埋葬を要求するのだと彼女は言う。それは彼女の兄への愛なのか、親族への忠誠が国家への忠誠に優先したということなのか。ひとは戸惑う。この掟が何に根拠を起き、何のためのものか、いかなる神の命令なのか、アンティゴネーは語らないからだ。さらにややこしいことに、彼女はあのオイディプスの娘であり、すなわち同時に妹でもある。彼女は兄を愛している。テキストを持っている方はどうか、「コロノスのオイディプス」でのアンティゴネーと兄との別れのシーンを読んでほしい。

 アンティゴネーは兄を埋葬することを正当化する神々の掟について語らず、まるで正当化なしに正当化するかのようだ。彼女は死に取りつかれている、そういうひともいる。墓場こそが結婚の新床、そのカーニバレスクなうつくしさとむごたらしさ。ここには言葉が追いつかないある速度がある。彼女は訴える。だが、その訴えを支える言葉は混乱した断片でしかない。ぼくはそれを、不思議な、彼岸的な大切さ、Strange Intimacy と呼びたい。奇妙な愛撫?

 露わになった死はおぞましい。だが、意味付けられ、非難された死体は、崇高さを帯びて必要とされる。アンティゴネーは死を隠蔽しようとしたのか。ならばそれは批判すべき逃避だとでも? ジュディス・バトラーの「アンティゴネーの主張」はアンティゴネーの親族関係の位置付けは多義的に混乱している、そのことを論の根幹においている。たしかにそうだろう、としたら、彼女の兄への関係は、やはりあやうい真実味をどうしても不可思議な形でおびていたはずだ。アンティゴネーの訴えは死を隠蔽するどころか呼び出す。なぜならそれは死体を死体という記号からふたたび固有の名と人間関係をもった人間として語るからだ。

 正当化できない義というような矛盾概念をつくりだして平然としているのはしゃらくさいけれど、アンティゴネーはぼくにとって何かものすごく重要な相手だ。彼女は死ぬ、舞台裏で、間接的に報告され。オフィーリアを思い出す。なぜ彼女は死んだのだろう。殺されるのをいさぎよしとしなかったのか。ひとによっては問いでも何でもないかもしれない。ぼくにはなぞでなぞで仕方がない。クレオンは彼女を生きながら閉じ込めた。すくなくとも王は彼女をそのまま飼い殺しにするつもりで、殺すつもりではなかった(ように読める)。

 たしかにそれはクレオンからすればひとつの復讐として感じられるだろう。だが、アンティゴネーはそんな理由で死んだわけではあるまい。たしかに彼女は劇のはじめから死ぬことを定められたものとして現れ、終始、生きることをことさらに望んでいない。だが、とぼくはおもう。それだからといって、みずから死を選ぶ、ということとは距離がひとつあるはずだろうと。

 そしてアンティゴネーにはどうしても生き延びる可能性を読めないということがぼくに深刻な問いを突きつける。彼岸的な親密さは現世に場所を持たないのだろうか。たしかに、そのような教訓ものになっていないことは、クレオンが劇の終末で滅びることで分かるのだが、しかし、それでは、なにもかもわやになって、良識も非現世的ないとしさもどちらもだめじゃあ、どうすればいい?

 クレオンの息子はアンティゴネーに殉じ、クレオンの妻はそのために死ぬ。整理がつかないのは、クレオンの息子、アンティゴネーの許婚のあつかいでもある。この好青年はぜんぜんだめなやつのようにも読めるし、ともかく立派なようにも読めるし、なんだかひどく不安定で分かりにくい。だいたいアンティゴネーとかれとの関係がいまひとつわからない。すでに境を越えた彼女にとってかれはすでに離れた人だったのか。そのことを基礎においてなお、とかれの行為を見れば、それはそれで崇高なようにも思えるのだが、それがなんだというのだろう。