vermilion::text in 2003F "見ヨ、我ラカノ塔ノ崩ルルヲ見タリ" β

 いいえ、わたしはそれを思い出すというのでない。たましいに刻まれた文字から黒い水が染み出すように、蜘蛛の巣のような白い肌に張り巡らされた刺青が真夜中にうずくように、わたしはそれにとらえられ、それはわたしにとらえられ逃れられはしない。

 ねえ、あなたが目覚めたとき、ゆっくりとまどろみのなかから意識が這い上がってくるとき、その眠りのふかい井戸には、しんとこころに響く歌の名残があるの。それを思い出したくて、喪ってしまったことがかなしくて、あなたは泣いたことがない?

 ねえ、あなたが何処からきて、何処を目指し、なにを求めているかわたしは聞きはしないわ。ここへ登ってくる人はみな絶望を一度は潜り抜けてきた人たちだもの、絶望もなく、希望もなく、ただ白昼夢のようにうつくしい歌だけがわたしたちを誘うのだと、そうわたしは信じているのよ。笛吹きに誘われて塔からまっさかさまに落ちたとしても、そのひとは一度は「飛んだ」のだと信じなければと言い残した人がいたわ。

 秘密を教えるわ、そう、そのひともまた、あのときそこにいたのよ。

 この思い描くことさえできない眩暈のなかで、生きていくロバのような私たち、泣き言を云うには、繰り返すまいと誓った悔いが多すぎるの。どれだけ、かけがえのないものを喪って悔いたかが、そのひとの歌を美しくするんだわ。

 崩れ落ちていく無数の煉瓦、夢のような、まるで空がスクリーンのようで、合成としか思えない。人々はリアルタイムで泣き叫び、近さと遠さの並存になすすべもない。銀朱の塔はその片割れを失って、ああ、まるで夢そのものが壊れていく、壊れていくのは、ただの建物ではなく、塔はだって世界だもの、無限の塔が破片となって散らばり、ゆがんでもはや回復することのないパースペクティブは永遠に喪われることのない石碑となって残る。

 そう、人々はかつて銀朱の塔は鏡のようにみずからの反映をもっていたと伝説で歌うでしょう。人々は伝聞の伝聞のなかにもなお紛れ込む恐怖のかけらを味わいながらいきていくでしょう。そしてそれは永遠の未来に起きることか、無限の過去に起きたことか、つねに幻の現在で起きつつあることなのかさえ見極められない。すべては永遠に回帰して反復し、塔は何度も崩れ落ちる。

 ねえ、わたしはそれにとらえられ、それはわたしにとらえられている。わたしたちは劫火とともに崩れ落ちた塔の中に住んでいるのかしら。それとも、ここは影で、すべては剽窃された偽者なのかしら。ほんとうのことは二度と起こらないと別の旅人はわたしにいったわ。ねえ、眠りから目覚めるとき、わたしは本当に、もうすこしでそれをみつけられそうだとおもうのよ。