批判

http://d.hatena.ne.jp/kouda_dc/20030522#p7
詳しいことはわからないのですが、という批判のたちの悪いところは、決して実際にはわからないから質問しているわけではないことだ。自分ではわかっていると思っているのである。だから、これは揶揄が含まれているのだ。そして、もうひとつ問題なのは、分からないものを書くことは悪いことだという観念を押し付けていることだ。事柄の性質そのものが難解であるがゆえに分かりやすく書くことで事柄を単純化してしまう場合というのはつねにある。シンプルに書けるということが頭のよさの証拠だというのは、つねに成り立つわけではないのだが、そういうイデオロギーは非常に蔓延しているとおもう。理解できないことに理解できないというなというのではない。理解できないことにつっこむとき、定義上理解できていないのだから、相手が悪いのか自分が悪いのか分からないのであり、そうである以上、相手が悪いというきめ付けをすることはじつに不当だということなのである。もし、相手が悪いという確信があるのなら、それは理解できていないのではなく理解できているのだから、そういうべきであり、しかもその根拠も述べるべきだ。詳しいことは分からないのですが、と言い訳をするのではなく、最反論されて恥を書くリスクを犯すことが、最低限の倫理だということで、逆にいえばそういう場合に無知に付け込んで再反論すればそれこそ相手の恥であるのだから、恐れる必要はない。だいいち、詳しいことが分からなくてもその論点に関する限りなにごとか分かっているはずであり、そうであるからこそおかしいと思ったのだから、そのことを謙遜する必要はない。ソクラテス的問いはそうではなく、実際に分からない、つねに問う余地があるということが前提にあるので、こたえを押し付けるためにあるのではない。揶揄的な、素朴な質問という構えはたんにいやらしいというよりも、素朴なかまえにこそ真理があるという通俗に阿諛している点が、いちばん問題だと個人的には思う。