手塚眞「白痴」からはじめて

白痴 [DVD]

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とりあえず、銀河は広末涼子のイメージだと思う。で、戦争とアイドルの親和性の高さの指摘は非常にクリティカルというか、面白かった。(あの「私勝つわ」の歌だけ発売したりしないかなあ)最後のほう十分間は意味不明というか、どういうつもりだと。おそらく、世界の再生のイメージなんだろうけど、これはつまらない観念的映像。なってない観念的前衛はなぜいつもサティをBGMにしますか。パーティのシーンにしれっとYOUさんが出ていてそれがちょっとうれしい。思うに広末はアイドルとして古典的であるかどうかという意味ではなく、アイドルであるのに古典的な存在だったと思う。というか、あややがアイドルとして過剰にアイドル的であるような意味でアイドル的なのではなくて、アイドル的なものがそれをずらしているようなものとしてのオリジナルとしての何か、そういう古典的な何かだったと。つまり、残酷さ、サディズム、無垢、はかなさ、純粋性、観念性、潔癖性というような諸特徴をもった存在という意味で、古典的。(彼女の場合、「はにかむ」というイメージも重要なのだが、これは古典的イメージの枠内なのか、彼女の独自性なのか)そしてこのような意味での処女性イメージは、戦争とナショナリズムの高揚と親和性が高い。それはヒロスエがどうこうというより、彼女にまつわる状況もふくめたパブリック・イメージの話なのだが、しかし彼女が哲学好きとか言い出したことを聞いたとき、やはりこの図式の中にあまりにもぴったりと当てはまっていたのだった。もちろん、このようなむしろ「文学的」な古典的処女神イメージは、たしかに安吾の女性像のひとつの極と親和的で、そのかぎりで、かならず安吾を映像化するひとがつねに「夜長姫」を参照することは無理もない必要性があるのだろう。そこでヒロスエ的な古典的処女性イメージと萌え的な現代的なロリータ像の差異を測定することはそれなりに面白そうではある。とはいえ、この古典的像とのずれは、古典的なアイドル的なものとのあいだにも生じていて、そういう古典的な意味でアイドル的なものは声優のほうに移行しているんじゃないか、ということはいえそうである。ところでもとにもどって最後にエヴァっぽくヒロインの白痴の女が巨大化するのだが、これは何なんだろう、こういう映像を作りたくなる理由は何なのかと考えて、

ああ、これは西遊記のお釈迦様のイメージがどこかにあるんだな

と思い至った。ついでにいえば、同時にこのことは、怪獣映画の怪獣とは女である、ということも意味する。

まあ、だからといって、ラストで女性が巨大化してうやむやになるというのが、方法論としていいかというと、ぜんぜん別の話だけど。