歴史と謝罪

どうも違和感を感じるのは、謝罪が求められているものなのか、ということ。

たとえてみれば、牛を要求されているのに馬を与えて、馬をいくら与えても牛を要求されるから、また馬を与えて、そしてまた馬を与えて、そして「普通は一頭で満足するのが標準だ、何頭やったと思ってるんだ、不当だ!」と怒っているように見える。根本的にすれ違っている。そして、欲しいのは牛で、馬は要らない、といわれると、「返さず受け取ったじゃないか、何だかんだいって欲しいんだろう?」あるいは「売って牛を買えばいいじゃないか」と返答してるような。そういう、無神経さというよりも、或る、奇妙な無自覚さがある。

謝る必要はない、なぜなら正当だったから、という言説には、ひとつの思想として耳を傾けることができるし、反論もできるし、少なくとも理解はできる。

しかし、さんざん謝ったじゃないか、という言説には率直に言って同意も共感もできない、というか、始末に困るというか、非常に、奇妙な居たたまれなさを感じる。ものすごいすれ違いと無自覚さを感じるからだ。さんざんあやまったじゃないかという言説が根本的に問題だというのは、もっと謝れということでは毛頭まったくないのであって、むしろ、戦争の主体として大日本帝国を、現在の日本国家のアイデンティティから批判的に他者として切り離し、その連続性を断つということが問われているのだろう。

それは自虐だの自責の念だのという言説に現れているので、なぜ大日本帝国の行為を「自己の過去」として引き受けてしまうのか、ということだ。むしろ「相続した負債」としてとらえるべきではないのか。現在の日本国は、大日本帝国を敵として打ち倒して成立した国家ではない。そのことは、やはり、何らかの問題を禍根として、残しているのではないか。というか、いつまでたっても同じ事をするんじゃないかと思われるのは、同じ国家であることをことあるごとに日本国家が表明するからだろう。

この国家的断絶性を表明し、思想的に引き受けることは、文化的、民族的、社会的な連続性と矛盾なんかしやしないだろう。国家というのは法制度と思想である。保守派にとって民族的同一性と国家的同一性を切り離すことは許しがたいことであるのかもしれないが、そのような一致を強制することこそ、文化的個別性、特殊性の抑圧に他ならない。

実際、現在の日本国家が大日本帝国を敵として別の国家として成立して取って代わった国家であったら、責任論への構えは異なったものでありえただろう。よくいわれるドイツと日本の違いは、ドイツが「もっとあやまった」からでも「中国よりもヨーロッパ諸国がものわかりがよかった」からでもない。そうではなく、現在のドイツ国家が、第三帝国を、たしかに事実として敵として取って代わった国家ではないけれども、理念的に、そのような国家として、また実際敵として戦った社会民主党を政権党としたこともあり、自己を他者として定義したから、もっと具体的には、ある意味でずるいことだけれども、「悪」を「ナチス」という形で自己の過去というよりも他者として規定したからだ。

(もちろん、このような国家の断絶は、国家を構成した個人がアイデンティティを切り離せるということは意味しない。それはそれで別の話である。)

政略的なことをどうしても絡めたいのならば、まさしく、大日本帝国を非難することが、現在の日本国家を責めることになるという構造こそが、この、日本国家が大日本帝国と断絶する気がないということと相即の事態だろう。その点では、政略的に持ち出すほうも、それが実際有効に「効いてしまう」、つまり、防衛せざるをえない、つまり、同一性を維持したがる、というこちらの国家も、共犯的だといえるのではないか。

繰り返すけれども、このような断絶を思想的、制度的に選択することは、民族的、文化的、倫理的な連続性と矛盾するものではない。大日本帝国が理念的に現在の日本国の「敵」ということになっても、その「敵」に属した父祖を敬えないというのならば、そのひとは基本的なところで政治に侵食されている。

もちろん、敵というところまでみなせといいたいわけではなく、他者として切り離した上で過去としてではなく相続した負債としてとらえることが必要で、そうでなければ、自分のことならなかなか客観的になれないし、感情的なこともあるし利害も絡む、という事情はいつまでたっても変わらないだろう、ということである。

追記
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20041023#p1