嗜好/指向

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id:HODGE

セクシュアリティをめぐって進行中の論争。

ちゃんと通読していないので印象論の域を出ないのだけど、メタファーというかカテゴライズというか、セクシュアリティを何といっしょにくくる形でかたるか、ということが不可避的にはらんでしまう(と、思いっきりジェンダー化された比喩を使ったりするわけですが)政治性の問題、だと思う。そこで、選択性や自然性みたいなあたりの論点が提出されてる。

本論には立ち入らずに、自発性や選択性という論点では、id:ueyamakzkさんが考えている引きこもりのことを連想した。もちろん、これはこれで、或る意味、一般化して受け取ることで話を中性化してしまうことでもあるんだけど。

まあ、こういう比較というか連想を書くこと自体がひとつ問題的というかそれなりに意味を持ってしまいそうでもあり、それほど深い意味があるわけではないのだけれど、セクシュアリティは難しいよなあ。

とりあえず、社会的に構築されているということはどういうことか、そして社会的に構築されていると言う、語ることはどういうことか、という論点には注目したいところ。構築されていると語ることで、たしかに、その自己への「根付き」が、すくなくとも効果として軽減して評価されてしまう面があることは了解できる。自己そのものがそのもっとも奥深い根において構築されているのだ、と語ることは、そのような批判にたいして、有効だろうか。あるネイティブさ(生得性)を、根拠として抵抗することはつねに有効というか局面においては必要でありつづけてきた。

と、そういえばid:tenkyoinさんがマーク付けの両義性について語っていたっけ。

まあ、こっちに展開すると、微妙にというか、もはやぜんぜん違う方向性のような気もしてはくるんだけど。主体の不可分な構成部分としてセクシュアリティを主張することで、逆に、そのような本質的属性をもつものとして主体を構成し、その主体の名において、抵抗が組織される局面で、主体の本来的統合性(の言説)を解体し脱構築する言説が、肯定されうるのは、どのような意味でか、というようなことなのかなあ。

こういうのはやはり情勢論抜きに論じても仕方がないんだろう、とも思うわけだけど、それはよく分からないからなあ。そういえばメアリー・チェイニーはその後公的になにかコメントを出したのだろうか。

追記

この論点は
http://d.hatena.ne.jp/jouno/20040711#1089491206
で言及した、
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/aasja/archives/POR.htm

本質主義批判にまつわるポリティクスも関係してきそう。