生得性の修辞学

実存的な問題意識としては、生得的にアイデンティティにとって本質的であると意識されている属性は、明らかに、「手放しうる」あるいは、「手放したことによってどうしようもなく自己が毀損されたと感じるようなものではない」属性とは違う。この差異は、社会構築的アプローチによる規範的階層化への批判によって「見過ごされ」るのだろうか。

しかし、勿論、何がそのような「本質的」属性であると意識されているか、ということは、個によって異なる。そのため、何が「本質的」属性であるかということを、規範化し、一般的に語ることは、それ自体、ひとつのあらたな階層化であり、抑圧、規範の再構成として機能するに違いない。

そして、もうひとつの問題は、この「本質的」であるという意識を「生得性」という修辞によって表現することの問題。天賦人権のように、「生得」であることは、「根拠」であった。

さて、ここで、ここで括弧に入れたような諸語句を本質主義批判によって解体することは、コンテキストを意識しないで遂行されれば、そのような語句が代理的な形で、つまりゆがめられた形ではあれ、しかし、何らかの形で媒介していたプロブレマティックを、意識不可能(無差異)にしてしまう危険というのを、伴う、ということは、事実であるように思う。

ここで、そうはいってもあいまいな中間的、位置付けられないアイデンティティを擁護するためのものとしての本質主義批判の意味というのは当然、保持されなければならないわけで。

もちろん、ぼくにはHODGEさんの批判にかかわらず、tummygirlさんはそのような危険に陥っている、とはおもわないのだけれど、それはそれとして、この危険は重要な論点だと、思うわけです。

追記
うーむ。なるほど。
一方では嗜好という言説が指向によって政治的な階層的位置を割り当てる体制に対して、ポジティブな返事を返してしまう響きを帯びる。ある種の悪魔払いというか中性化。