戯れ? 軽やかさ?

ぼくの理解が正確かどうかは定かではないのですが。

『最後のフーコー』のインタビューを読んでいて、ゲームってのはそういう楽しく遊ぶとか自由になるとかそういう意味合いで言ってるんじゃないんですよ、といっているところがあって、いまだにニューアカニューエイジ的言説を唱えていたり、また批判的立場からそういうものがポスト構造主義だと思っているひとには認識を改めてほしいよなと思った。もっとも実際、そういうjeuという言葉の多義性を利用してかたっている面も大いにあったから仕方ないといえば仕方ないのだけれど、基本的にはポスト構造主義の「戯れ/ゲーム」はホモ・ルーデンス的なナニとは違うもので、ルールセットによって規定される活動のことだ。ここで構造概念やシステム概念と微妙に違うのは、あくまでもルールセットで、あって、ルール同志の関係はあまり問われない、ルーズで開かれている、つまり、システムや構造概念がもつ自己完結性や公理系的な循環性は含意されていなくて、ルールの集合であって、それゆえにルールが追加されたり削除されたりして、可変的かつ漸進的にゲームは変化する。これは実際のボードゲームやカードゲームについてある程度いえることではないだろうか。フランスのはニーチェ由来だけれども、ウィトゲンシュタインの概念と基本的には通底するものだといっていいとおもう。ある意味で、ルールセットの外延的な集合が、自己完結的にみずからを反復するとき、その反省的契機から、つまり、内側から、そのルールセットによって形成された主体から見たときは、構造主義的、オートポイエーシス的システムがそこにある、ということになるのではないか。

これはある意味あたりまえの認識だということに現在からさかのぼってみればみえるのかもしれないが、真理論の歴史としてみればある程度その意義がわかる。ニーチェあたりまでは真理とはどういうものか、どういう性質のものか、という形で、いわば物的対象のようにして、その属性、特徴、形態、色彩を記述するかのようにして論じられてきた。それにたいして、ゲームの観点からは、真理とは何かと問うのではなく、何が真理かを決定する過程をゲームとみなしたとき、このゲームを構成するルールセットはどのようなものか、と言う形に問いが変形された。そしてこの視点からするとき、真理の決定過程の要素として、この真理決定のゲームのルールセットによって規定されるものとして、主体の概念が不可分のものであることがわかる。プレイヤーがいかなる性質のものであり、何ができ、何をしなければいけないかは、ゲームによって規定される。「主体」はどうやら多分に「真理決定のゲーム」によって規定される概念であるらしい、ということがわかって来た。と、そういう話。

ところで、どこかで言語論的転回は否定された、という話を聞きかじったのだけれど、そのさいいわれている言語論的転回って厳密にはどういう話よ、と思うわけで。詳細希望と思っていたりする。

しかし、なんかなんでもかんでも認知科学が遺伝学が解決だなんて言説もよく見るけれど、それこそ形而上学的なふるくさい素朴実在論じゃないのか。たしかに現象学や認識論などの主体や認識の内部構造を明らかにするという話はかなりの程度認知科学の問題だろうけれども、そこで自然科学に還元できるとおもってしまうのは、単純に反省的思考の欠如でしかないんじゃないか。と、いうよりも、むしろ、、自然科学に還元可能な、あるいは還元可能だとみなしうる領域だけが、哲学的領域として認識される、という状況が生じているんじゃないか、と思う。そういう意味で、アイデンティティ、倫理、政治学が哲学の非常に基本的構成要素としてかえってあらわれているのは示唆的で、思うにポストモダン的とあえていうけど、というか現代的な相対主義状況の中で、そもそも倫理や価値の問題が、反省的思考の対象になりうるということを考えることができなくなっている面があるのではないか、つまり、所詮価値観の問題は「議論」は不可能で本質的には押し付け合いでしかない、というニヒリズムがあるのだと思う。そこには価値や信条や倫理に関するある本質主義的な誤謬があると思う。というか、倫理的問題に関して「説得」とは異なるタイプの思考と議論が可能であり必要でもあるというのは、哲学の初発からの前提だった。

倫理的決定が究極的には無根拠でその主体が形成された社会の伝統に拘束されるというような話は、ある意味、退屈で無内容な議論なんであって、それはあくまでもつきつめれば、という話であり、五十歩と百歩はつきつめれば同じだが、しかし五十歩と百歩はたしかに五十歩だけ違うのであり、その五十歩にむしろ倫理的問題は懸っている。そして、そもそも相手の言葉がすくなくとも、相手の行動と矛盾を報じない程度の大まかさで理解できるという意味で、その程度の大まかさにおいては、人間の価値観はおどろくほど通じ合っている。と、いうよりも、こういうべきで、翻訳できるかぎり、そして翻訳できた程度だけ、その翻訳から析出される普遍性において、合意可能なものを追及すべきなのであって、完全な合意が原理的に不可能であるということは、まったく中途半端で暫定的な合意をする義務を免除するものではないのである。

しかしまたそこでそのおおまかさを忘却しないことの実践的意味は、まさしく、その合意の可変性にかかわるのであり、しかもその可変性はけっして合意の恣意性を結果するのではなく、むしろその拘束性にかかわるだろう。厳密には価値観が同じではありえず、理解し得ないからこそ、暫定的合意およびその基礎となる語彙の翻訳は、必然的に破綻を露呈する。しかしだから暫定的合意と翻訳に意味がないのではなく、この破綻をどのように修正するか、ということは、決して「自由」でも「恣意的」でもないことを考えてみればわかる。その修正は、新たに生じた状況によって強いられた翻訳と相互の乖離の具体的な仕方に厳密に拘束されている。