趣味的なものが、「予感」と結びつくとき、イデオロギーが胎動する。「予感」というのは、いままさしくなにか「偉大な」ことがおきつつあるのかもしれない、という「予感」で、このような、「予感」が存在する場所には、どこにも、作動しつつあるイデオロギーがある。そして、そうしたものはつねに必然的に、趣味的な美的快感が伴う。スタイリッシュであることこそ、イデオロギー的現象の本質だろう。

いままさしくなにか「偉大な」ことが「進行しつつ」あるの「かもしれない」という三要素はどれもはずせない。それはつねに「かもしれない」の相にあるからこそ、神秘的な現実感をもちうるのであり、現場に立ち会っているという感覚抜きには、その出来事は自己のものとして引き受けられない。

懐疑的で皮肉な精神はこうした陶酔をあざ笑うけれども、懐疑主義者こそ、こうした誘惑には弱い。なぜなら、もしかしたら、本当だったら? という疑問には対抗できないからだ。懐疑主義者は、「偉大な出来事」が「事実でない」からあざ笑うという視座からみているかぎりで、「事実であった」場合への対抗手段をもたない。そして、まさしく、「予感」は拒否によって呼び起こされる。

むしろ、黙示録的期待は、それが事実であるかもしれなければ、なおさら、拒否されなければならない。それが、懐疑主義的なシニシズムよりも、本質的な対抗手段だろう。

イワン・カラマーゾフの拒絶を想起すること。

ソシテ、黙示録的期待は、個人的なものとして告白されず、表向きにはむしろ趣味的な美学が前面に出される。この公的なものと私的なものの逆転。