ロングバージョン 掌編

うーん、ちょっと過去の部分が弱いかもなあ。


 ……パンデモニウム荘で発生した殺人未遂事件は意外な展開を遂げた。カッツェと名乗って警察を嘲笑った犯人は探偵ナハトに見破られ未遂のまま自殺し、殺人予告を生き延びた伯爵は物情騒然たる欧州へと旅立った。だが半年後、伯爵の乗った列車がセゲニアの内乱に巻き込まれて炎上したという知らせが届いた。ナハトは珍しく動揺の色を見せた。

《猫が淀んだ、澄明な闇のなかにいる》

 ナハトは飄然と何処かへと姿を消した。私……地方新聞の敏腕記者たるイレーヌ・クラウンはこの成り行きに特種の匂いをかぎつけた。すでにたった一発の銃弾からはじまったセゲニアのおろかな内乱は拡大の兆しを見せていた。もはや合衆国の参戦さえ想像の外にあるとはいえなかった。事件の関係者に私は再び会う必要を感じた。

《金色の瞳には燭台に炎のゆらめいているのが映っている》

 執事のノース氏は主を欠いたパンデモニウム荘からすでに退職していた。事件以来はじめて目にしたノース氏は、奇妙なほど老け込んでいて、私のことをはじめ教区牧師の夫人と間違えたほどだった。この牧師夫人と言うのが五十代でしかも風船のように豊麗なのだ。その後の他の関係者のことを聞いてもどうにも要領を得ない。思わず荒い声を出そうかというとき、事件のときにはまだ学校に寄宿していたとかで会う機会のなかった娘のソフィア嬢が奥から姿を現して優雅に一揖した。目を見張るほど美しい娘だった。

《不意に、猫が闇の中でながく鳴いた。ゆっくりと、こちらへと、歩みだす》

 「父を悩ませないで上げてほしいのです」

 澄んだ瞳とひたむきな声音には偽者ではない心痛が込められていた。夫人ははやくに亡くなり、彼女はノース氏が男で一人で育てたのだという。それだけに何か余人にはうかがい知れない絆があるのかもしれなかった。気圧されるものを感じ、私は再来を期しつつもその日は早々に退散した。

 ナハトが何食わぬ顔で前触れもなく私を食事に誘いに来たのはその夜のことだ。聞きたいことはいくらでもあったが、しかし私には飄々とした表情の奥に、抑えがたい怒りを認めた。なにをしていたのかと聞くと、ただ、セゲニアを見てきたよ、というばかりだった。

《闇の底には、ひそやかな音楽が蟠っている》

 ……吹きすさぶ嵐の夜、薬缶はしゅんしゅんと沸き立っている。父親はいない。どこへ出かけていたのだったろうか。彼女にはなぜか思い出せない。風雨の音は激しかったが、孤独が染み入るように静けさの印象を織り上げていた。時間が砂のように降り積もっていく。暖炉のあかるい火には、まるで彼女の渇望がうつっているかのようだ。夜毎の夢の暗さのように、彼女は何かに飢えていた。それが何であるのか、ただ、「外」ということのイメージでしかないのかすら、彼女には分からないのだった。窓の外は世界を覆すほどの豪雨がノア以来の洪水を引き起こそうとでもしているかのようだ。ここから出ることができたら、閉じ込められることは無残な祖母の死の記憶と結びついていた。 

 だがぼくはイレーヌにすべてを告げる前にまず魔女に会わなければいけなかった。

 「そろそろ来られるころだと思っていましたわ」

 純潔そのもののように、セゲニアの無数の死骸と引き換えに、最初の男を殺した魔女が、ぼくのまえで微笑んだ。失われて再びめぐり合った姉妹のような親しさと心遣いを込めたその微笑みは、ともすればぼくの確信をさえくじきかねなかった。内乱は彼女にとって必要だった条件にすぎなかった。内乱が伯爵をセゲニア国内に必要な間ひきとめ、捜査や司法を無効にした。ある意味でこれはおそろしく乱暴で杜撰なやり方だ。おそらくずっとくすぶっていた内乱の兆しを見て、ただ、そのほうが何かと有利だから、という理由でしかなかったのだろう。

 「動機、だけが分からないんですよ」

 ……ドアが開く。嵐が吹き込む。男は驚いたような顔の見知らぬ少女の様子に躊躇う。少女は無心な、まちもうける心でかれを見る。男は不意に凶暴な衝動に駆られて思う。つかまえようか、逃げようか。嵐がドアを吹き飛ばしそうになる。

 「あめがすきだったのよ。浄められるのだとわたしは妄信していたわ」

《もういちど、脅しつけるように猫が鳴く。闇の中で見えるものは何もない》

 「伯爵が貴方を裏切ったのですか」

 「いいえ」

 そしてもう、二度と彼女は答えようとはしなかった。 

《思い切って手を伸ばすと、甘い痛みが走り、手首を齧りとられた。赤い口が見えた》

 ……ナハトの話を聞き終えると、私は、彼女をどうする積もりなのか尋ねた。どうもしないさ。証拠もない。それに、罰は戦争そのものが下すだろうさ。それが答えだった。

 私は結局特種を記事にはしなかった。合衆国はついに参戦を決定した。そうして、ナハトからノース氏が予備役に志願したと聞かされた。それを最後に、彼女の消息は知れない。