アスペクトとか

http://d.hatena.ne.jp/summercontrail/20050905
この点、興味を引かれたのでいろいろサーベイしたり考えてみたりしたのですが、どうもすっきりとした説明はなかなか難しいようで、日本語のテンスの問題は非常にややこしい。ただ、日本語では、状態を表す動詞と動きを表す動詞という文法的区別があって(意味内容ではなくてそれぞれの言語ローカルな文法的実装上の区別。名詞の性などと同様)、「思う」のような動きを表す動詞の場合、「た」で存続の意味を表すことは文法的に無理で、「ている」によって状態動詞「思っている」に変化させた上でなければならない、というところまではいえるんじゃないかと。そこから、何でそうなるのかを説明しようとするとかなり泥沼ですが。それと、「報告」という点を抽出してくるのは、ちょうどもとの話題での語用論的なぼくの区別に対応しています。「と思う」と「と思った」の区別は多くの場合、「主張」と「報告」の発話行為としての区別に(必然的にではないが)対応している、というような話です。もっともその話はそんなにこだわりたいわけではなくて、日本語のテンスとアスペクトはややこしいというか、学校文法ってほんと役立たない、という話。

動詞というか、この件にかぎれば、用言一般の問題で、状態を表す用言・述語と、動き・変化を表す用言・述語の対立か。形容詞・形容動詞を別扱いにする必要はないな。

あと存続・継続は現在か? という分析方向もあるな。「た」は振り返る視点だから、「ずっと好きでした」というとき、今も好きであることは、必然ではない。問題にされていない。ペンディング。いったん、発言時点で区切って、「ずっと好きでいた」という事態の成立をマークする言い方だ。その場合、完了と存続の間に、日本語の内部で、意味論ではなく文法の内部で区別はあるのか。うーん、このへんから混乱してくるな。

しかしこういうのっていくらでも素人考えが混乱できる地帯なんだよなあ。

参考にいろいろメモ

http://www.geocities.jp/niwasaburoo/23tensu.html
http://www.geocities.jp/niwasaburoo/24asupekuto.html

http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/kudohiro/temporality.html
http://plaza.harmonix.ne.jp/~sakat/aspekto2.htm

http://search2.libi.kyutech.ac.jp/Kiyou/pdf/higuchi14.pdf
http://66.102.7.104/search?q=cache:oY0GwZjpsaYJ:search2.libi.kyutech.ac.jp/Kiyou/pdf/higuchi14.pdf+%E7%99%BA%E8%A9%B1%E8%A1%8C%E7%82%BA%E3%80%80%E5%AE%8C%E4%BA%86%E5%BD%A2&hl=ja

http://homepage1.nifty.com/forty-sixer/ta.htm

http://www.geocities.co.jp/HeartLand/8291/nih303.htm