ねこかわいがり

http://d.hatena.ne.jp/iduru/20050909#p1
http://d.hatena.ne.jp/kowagari/20050909/1126273573

iduruさんが何にいらだっているのかよく分からない。というか、愛を、何か特別なものとして切り離して考えすぎだと思う。猫を飼え、というのは、不安を知るということだ。iduruさんが、猫と人とは違う、というとき考えているのは、関係のスキルの問題だ。アニさんが考えているのは、非モテの主体の側の条件なのである。つまり、心配するということに愛の原型の、まず主体の側の条件がある。iduruさんが考えている、関係としての愛が成立する条件としての「ただ愛するだけでは愛されないということの身体的体得」の「前」に、たとえエゴイスティックなものであれ、つまり、「猫かわいがりして医者に見せないでかえって殺してしまう母親」のような意味であれ、まず愛することが必要である、ということなのだと思う。自己愛の延長であれ、おろかであれ、支配のアスペクトを濃厚に持っているものであれ、それを愛と呼ばないことはできない。そして、この種の愛と、恋愛も、連続線上にある。非モテ的言説の中には、恋愛を醜悪であると捉えるものはあっても、愛することの恐ろしさと不幸と恐怖にあまり言及している人はいない。愛することは恐ろしい。愛してしまえば、神経症的な不安の夜に襲われるからだ。(しかし振られる恐怖のことではない。相手の悲惨の可能性という不安だ。)恋愛とは弱みの獲得である。猫を飼うということは弱みを持つということだ。だから、愛の不安のあまりノイローゼになって猫を殺してしまったとしても、そのひとは愛をともかくは知ったのだ。

つまり、主体の側の動機というか情念というか、内的条件を問題にしているアニさんに対してiduruさんは社会化の一環として恋愛を究極的には「関係のスキル」の問題として捉えているように見える。大人になることの一環としての恋愛として。しかし、恋愛の前提にあるのは、他者を自己の弱みとすること、弱くなること、小さくなること、愚かになること、という「安定した自己完結の暴力的喪失」という側面のほうなんじゃないか。そして、それは猫を飼うことで十分、達成されると思う。そういう意味ではかわいい猫はこのうえなく暴力的だ。

まあ、愛さなければ愛されない、と、愛するだけでは愛されないの対立の話だと考えれば、しかし愛することは任意に意図的に可能なことではないわけで、愛着は不意に襲ってきてひとを苦しめるものだから、まず、愛に取り付かれて、初めて、「愛するだけでは愛されない」というiduruさんが考えている問題、関係のスキルの問題になるんじゃないだろうか。そして、普通に非モテを自認する言説を見ると、「或る誰かに愛されない」というその関係のスキルが問題になるフェーズを問題にしているひとよりも、「誰かに愛されない、愛さない」という前者のモメント(といっても人間的に愛されないというレベルではなくて、そのレベルでは普通に「承認」されている)、究極的には、主体の側の条件の欠如を物語っているケースが多いように私には見える。

http://d.hatena.ne.jp/nand/20050910/p1

ここはやっぱりいつよんでも面白い。こういう曲線的だけれども、ちゃんと主題にまともに内容的に噛んでいる文章を書けるのはすごいなあと思う。
で、アニさんの反応がやや感情的過ぎる感じは僕もした。

http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20050909#p1

ここでも恋愛話が!

追記
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/jouno/20050910/1126349205
id:rAdioさんはいったい何に対する意見や立場表明を求めているのか分からない。ぼくの文章は単なる中立的な解説や俯瞰じゃないですよ。主題になっていることに対するぼくの判断が書いてないなんてことはありません。


もうひとつ。ぼくはなにかもっと立派な愛と病的な愛着は連続的なもので一貫したものだと考えているわけで混同しているわけではありません。極言すれば、病的でない愛などありません。社会や相手と安定した関係を構築することができるかどうかは、病的で暴力的な側面と同時に存在する話なのであって、愛の本質に相違があるわけではありません。

関連
http://d.hatena.ne.jp/Maybe-na/20050911/1126453092