無意味であることに意味があるというスタンスについて

 ぼくはどちらかというと、何かを正しいと認めるためには理由がなければならない、というほうだ。

 しかし、他方で、やること成すことやおきることに意味がなければならない、とおもったことが殆どない。意味なんていらない、と思ってる。

 で、だからこそ、意味がないから面白い、ばかばかしい、すばらしい、という感受性というか理屈の持ち主がきらいだ。なんか、無駄に饒舌というか、理屈っぽい気がする。

 意味がないから意味があるというのは、意味ばっかり求めているから反動で無意味をことさらに求めているので、無意味でなければならない、というのは、無意味に無意味という意味を求めているので、窮屈この上ないし、無理が見える。

 いや、すくなくともぼくにはそう感じられてうざったいのだ。そういう理由でない人もいるだろう。そういう人のがじつは多いのかもしれない。それは認める。認めるけれども、やっぱり、無意味をことさらに求めるのは、意味を求めるのと大して変わらないように思える。

 なぜなら、ある事柄に意義なり意味なりがかりにあったとしても、そのこと、意味の有り無し自体にはたいして意味なんかないのだから、どっちでもいいはずなのだ。

 無意味なことを無意味という意味があるからという理由で求めてしまったら、もうそれは意味のあることであって、本来の無意味さは失われているはずだ。だから、無意味に触れることで意味への固執から一時的に解放されたい、というのであれば、それは、原理的には、不意打ちによってしか、起こりえない事態のはずだ、と僕は思う。