イリヤ

http://d.hatena.ne.jp/michiaki/20050929
これは
http://d.hatena.ne.jp/michiaki/20050926#1127745320
が、

付録2;『時間と他者』(1954)
   (合田正人編訳『レヴィナス・コレクション』より)

「実存者なきこの実存することに、われわれはいかにして接近しようとするのだろうか。諸存在も人々も、万物が無に帰した様を想像してみよう。その場合、われわれは純粋な無と出会うことになるのだろうか。万物のこのような想像的破壊の後に残るのは、何ものかではなく、ある(il y a)という事実である。万物の不在が、一個の現存のように回帰する。すべてが失われたその場所のように、大気の密度のように、空虚の充満のように、沈黙の呟きのように回帰するのだ。諸事物と諸存在のこの破壊の後には、実存することという非人称的な「力の場」がある。主体でも、実詞でもない何かが。もはや何もないときに、実存するという事実は課せられる。それは匿名である。誰も、何もこの実存を引き受けることはない。「雨が降る」(il pleut)や「暑い」(il fait chaud)のように非人称的なのだ。実存することをいかに否定して遠ざけようとも、実存することは回帰する。純粋な実存することの不可避性のごときものがあるのだ。
このような実存することの匿名態に言及したからといって、私は、哲学の数々の手引きのなかで語られているような未分化な地(fond)、知覚がそこで諸事物を裁断するような地のことを考えているのではまったくない。この未分化な地はすでにして一個の存在―存在者―であり、何ものかである。それはすでにして実詞的なものの範疇に組み込まれてしまっている。われわれが接近を試みている、実存すること、―それは存在するという営みそのものであって、この営みは実詞によっては表現されず、動詞によって表現される。一切の否定の背後から、存在するというこの雰囲気、「力の場」としてのこの存在がふたたび現出する。一切の肯定と否定が可能になるような場として。実存することは、存在する客体には決して固着してはいない。だからこそ、われわれはそれを匿名の実存することと呼ぶのである。
別の道を通って、この状況に近づいてみよう。不眠を例にとろう。今度は、想像上の経験ではない。不眠は、それが決して終わらないという意識、言い換えるなら、監視をやめることができず、そこから脱するいかなる手段もないという意識からなる。いかなる目的もない監視である。…」(「時間と他なるもの」合田正人編訳『レヴィナス・コレクション』より)

http://www.ne.jp/asahi/village/good/Levinas.htm
の話とつながるんじゃないか、という話で出したわけです。他者論・責任論のレヴィナス入門の本だとちょっと遠いかもしれませんけど。デカルト的なコギトの手前に、そういう私以前の、ただなにかが、というか主語なしの「が、ある」を考えるべきなんじゃないか、というのでイリヤ(il y a)(フランス語の「が、ある」)をレヴィナスは提出するわけです。