妖精さん

妖精さんが夜に仕事をしてくれる、というのはヨーロッパのケルト系の信仰だと思います。ただ妖精はいたずらをする場合もあるので仕事がちゃんとしてるかどうかは不明です。取替え子とかも同系の民俗で、ミステリーサークルみたいな小さい輪を妖精が踊った跡ということで妖精の輪と呼んだりします。

データ

http://www8.big.or.jp/~vid/Diary/?date=20030516
採用するしないは実は関心がないのでそういう話であれば基本的にはいいんですが。(あ、でも採用したら送り手になる可能性は普通にあるのでは。いまtDiaryトラックバック、普通に送信できるので)
以下、とりあえず場所はともかく、リンクとトラックバックの差異を明確にしたいという、意味で少し。つまり目的はトラックバックリンク元やコメントとの差異を際立たせることで、反論そのものにはない。

#追記。視点が違うというのは納得しました。そのうえで、主たるあて先というわけではなく、出てきた話について一般論として考えてみたいということです。反応はことさら期待してるわけではないです。勿論、反応するなというわけでもありません。

データが意味を自称するというのはプロトコルまで含めた話で、機械は解釈をするわけですよ、規約が定まってれば。そういう意味で自動認識できる場合が、データが意味を自称する場合ということです。人間がいちいちケースバイケースで判断するのとは違う。どちらも、最終的には人間が意味付けを行うわけですが、規約が定まっているということの重要性です。解釈で多義性がはらまれるのはめんどくさいということで、規約が共有されると、技術的にはたいしたことがなくてもすごいことができる場合もある。

規約が共有されている、ということは、意味を通信する場合は決定的に、とくに機械処理を行う場合は重要、というのはあたりまえですよね、いうまでもない。トラックバックというのは、リンクのさらに上層のプロトコルのように働くと。そうでないと、人間が場合場合で解釈行為を介在させないといけない。

たとえば、手紙はいろいろな文章でありえて、人間なんだからそれは意味を読み取るのは当然できる。でもヘッダーにこういう文字列をいれたらこの手紙は時候の挨拶、という取り決めをすると、自動処理できる。で、その時候の挨拶という意味を人間は解釈する必要はある。その意味で解釈行為の介在は必要ですが、第一次のこれは時候の挨拶か、という解釈行為はスルーできる。その意味は大きい。

あと、能動受動というのは単純に比喩として、積極的、消極的のがいいのでは。能動の度がひくいことを受動と呼ぶのは無理がある気がします。わたしは、リンク元は、能動受動の対よりも確実不確実で捕らえたほうがいいと思います。

あとは、コメントとトラックバックの差異。
これはひたすら実際の使用感ではめんどくささも意識としても違うとしかいえません。非常に些細な差異が、十分に体感上はおおきな差異になる。コメントをつけるのは読者としての行為だけれど、トラックバックするのは作者としての行為だ、ということかもしれません。おそらくコメントはコメント欄のあるページの管理人になかば私的におくるものであるのに対し、トラックバックは、その話題の目に見えないスレッドのようなものにおくるものなのではないかと思います。たまたま特定のサイトへトラックバックが集中することがあっても、本質的にはトラックバックはその場合、その話題に向けられている。つまり、むしろ2chに似ている。