弱者という言葉 弱さの実体化と精神力は万人の共有という幻想
http://fromdusktildawn.g.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20060727/1153958256
こういう言論の問題は、工夫する能力そのものが、環境次第で容易に欠損しうるということへの想像力がないことだ。工夫しさえすればよい。そのとおり。問題は、工夫する能力こそが物質的情況によって、まずはじめに失われるものだということだ。すべて、こういう議論は、ワーキング・プア関係でもそうだが、物質的情況は、精神を犯さないという前提がある。がんばる能力、工夫する能力こそが、物質的支援を何よりも必要とする、いちばん容易に喪失されるものなのだ。工夫できないということは、工夫しない、工夫したくないということではない。そのような読み替えこそが、つねに叱責の回路を可能にする。競争に伍せないということの、源泉の大きなもの、それは物質的リソース、手札の不足と同時に(とはいえ、まず何よりも絶対的な欠乏を無視してはいけない。そして、この欠乏は、実は、距離としては大きなものではない。ただ、不連続な、ある境界線に対して、「少し」足りない。そして、その「少し」が、たまたま、その「不連続線」をまたいでいるために、抵抗しようもなく、「絶対的」なのだ)、工夫し交渉する主体であることの不能性だ。精神は欠損する。そして、精神の欠損を、意志によって癒すことはできない。(ここでわたしは精神の病について述べているのではない。もっと広く、精神の情況、あるいは構成について述べている。程度の差はあれ、すべての人が、何がしか、何かの精神の欠損を持つ。そういう意味において、だ。)意志は、備わった能力を動員しうるだけだ。そこには、或る客観性が間違いなく存在する。
工夫できないということに対して、叱責や自己認識が役に立つのは、よほど、すでに、その欠損がいやされたフェーズにおいて、のみである。しかし、もちろん、このような言論は、必然的に泣き言として、あるいは甘やかしの言説として、読まれる運命を持つ。だが、そのような読み替えこそ安直なのだ。もちろん、自立の方向でしか支援は本来的に有効ではありえない。しかし、工夫し、交渉する狡猾さの育成というフェーズを抜きにして、自立はありえない。工夫し、交渉する狡猾さは、叱責や啓蒙によって、身につくということは、断じてありえない。叱責と啓蒙を重視する人々は、そもそも、精神論という「意志の万能」への幻想に陥っている。意志こそが、なによりも物質的リソースによって基礎付けられているのに。
意志とは精神のすばらしい世界、内面の奥底、美しい魂から、あるいは最近の「科学」主義の司祭たちの信じているような聖なる「遺伝子」からやってくる、万人に分け与えられた可能性、などではない。(それこそがアメリカン・ドリーム的セルフ・ヘルプの理念のマイナスの遺産だ)意志とは、一定の余裕のある人間が、それゆえに身につけることができる、ちょうど、学力などと同列の、ひとつの「能力」なのである。意志力を、失われえないもの、ででもあるかのように、他の能力に対して特別扱いしてはいけない。
そして、矛盾するようだけれども、ここでいうような議論において、つねに、弱者というものがあるかのように、実体化して語られることにも違和感がある。「弱者」というものがいる、という語りは、弱さを個人に帰属させ、その実体的な性質として語る。だが、それは、あからさまにフィクションだ。弱さとは、ひとつの関係における位置に過ぎない。弱者とはステータスだ。個人の属性ではない。弱さとは、相対的な関係のひとつのフェーズを語っているものにすぎない。弱さが個人に配当されるとき、そこには、慈善と憐憫と軽蔑の回路が同時に進行する。だが、弱さは個人の内部にあるのではなく、人と人との間にある。それは外部なのだ。そのことからどういう帰結が出てくるか。
意志や工夫の不能性や、学力や、物質的リソースや、手札や、信用の欠乏は、たしかに、個人に帰属しているかのように見える。そして、それが、たしかに、個人において現象していることは事実だ。しかし、それは、その個人において、欠乏がある、ということなのだ。問題は、唐突なようだけれども、「名前」なのである。いいかえれば、交換可能性だ。
誰もが、弱者でありうる。誰もが欠損しうる。誰もが、不能でありうる。違いは、固有名詞には、名前には、そして、あなたをあなたたらしめているもの(それが何であれ)には、ない。違いは、ただ、偶然と歴史にある。いや、違いは、ただ、あなたと他との関係と、その人と他との関係との、二つの関係の間にあった。
ややとっちらかった物言いをまとめていうと、「弱さの実体化、個人への帰属という語りは、『弱者』と『強者』の間の違いを、その個人の間の違いとして語ってしまう。しかし、違いは、『個人の間の違い』ではない。『個人の間の違い』は「個人が置かれていた情況の間の違い」の結果に過ぎない」
(勿論、勿論、われらのかけがえのない歴史が違いを生んだのではない、と云っているのではない。私たちの生と選択、過ぎ去った日々の無数の苦痛と幸福、意志と悔恨と、それらは無限の違いを生じさせた。にもかかわらず、私は云う。それは、やはり、情況の規定した一定の範囲の内部で、そうだったのだ。それは、まったく持って私たちの歴史の意味をむなしくしない。たとえば私の生は私が日本人に生まれたという事実に規定されているし、それゆえに、どうしても不可能なことがある。同じことは、わたしがこの時代に生まれたことによる制約をあげてもいい。しかし、そのような意味で、あらかじめ規定されていることがある、ということは、なんら、選択や意志をむなしくするものではないだろう。この二つのタイプの『違い』は尺度が、意味が違う。一方は、社会経済的な『範囲』での制約であり、これは越えられない限定をもつ。他方の違いは、「固有性」の度合いであり、それには、たしかに同じような意味では限定はない。異質性は無限でありうるが、程度は無限ではありえない)
弱さとは本質的にはステータスであり、確かに、そこにいるその人のその弱さは、実体的属性だが、第一にその属性が弱さとして現れるのは、特定の関係の効果でしかない。(身分制では生まれの悪さは弱さだろう。何が弱さになるかは情況の関数だ)そして第二に、その現状の社会において弱さとして存在するその特定の属性が彼・彼女に存在すること、そのものが、ひとつの、彼・彼女にとっての「本質ではなくステータス」なのだということだ。弱さの実体化の言説は、弱者ではないと信じる人々を、先天的に弱さの例外にすることへと貢献する。
これは、人は環境の奴隷である、というような、古臭い決定論にすぎないだろうか? 違う。おかれた関係の情況が同じならば、人はいくらでも、差異を生かせるだろう。意志は有効だし、工夫は無ではない。あたりまえだ。問題は、にもかかわらず、情況は、制約を課すし、場合によってはそうした制約は、孤立していては乗り越え不可能だ、という当たり前のことに過ぎない。結局のところ、主張はきわめて穏当なのだ。環境はひとに制約を課すし、それについては、意志や工夫や精神力は、まったく例外ではない。ということに過ぎない。決定ではなく、制約が問題なのである。しかし、そのような穏当な主張こそ、意志と工夫への幻想的な信頼によって、つねに踏みにじられている。
付記。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50579309.html
それはそれとしてこの議論も重要だと思う。また、いわゆるフロー強者の切迫感や被害者感情のようなものが、ストック強者へは向かわず、下へ向くという構造もあるだろうし、それゆえの「不安定な強者」が「より下」からの批判の矢面に立つとき、文句も言いたくなるというのも、わかる。しかしそれはやっぱり、筋違いなので、自分だってがんばったからこそ優位にいるんで、それだって全然安定してないんだ、というのは、まったく、それ自体としては正しい主張だけれども、それを、欠乏にさらされている劣位の人々に向けるところには、倒錯というか勘違いがあると思う。競争し続けなければいけないつらさの存在は、競争できないつらさを否定しない。どっちだってあるので、一方が他方の存在を否定することなどできはしない。そして、双方を認めたうえで、深刻度の違いはやっぱりあるだろう。
関連。
http://d.hatena.ne.jp/mkusunok/20060727/wpoor
明晰。
再追記。
話者の意図は文章の意味とは別のものだから、敢えて書いたかどうかということは関係がない。この追記と同じ資格で、あれはわざと書いたという言明もまた余計な解説だ。たしかに、語り手をわたしが説得しようとしていたのなら、そうした誤認は問題だ。しかし、はなから、私は、語り手や語り手の意図など眼中にはない。こうした言論、と書いたのはそういうことだ。また、そうそう甘く見てはいけないのは、考えてもいないことは書けないということだ。本当の意見と価値判断が正反対のことを書くことはできる。しかし、それは「本当の意見」と同じ欠陥を分け持っている。ここで、奇妙にも感慨深いのは、意図や動機に、メディアリテラシーの言説でも、こうした、釣りや「芸としてのテキスト」のゲームという言説にしても、取り付かれているということだ。しかし、言説の効果への配慮に対して、言説の動機への配慮など、あまり実践的に実は意味があるものではない。思うに、こうしたスタイルの支配には、さんざ言い尽くされたことだが、「地下生活者の手記」のような、過剰な先回りの欲望、自己防衛が存在する。ただし、こうして、相手の言説を思慮ではなく欲望で読むという意味では、この解釈もそうした偏向をまぬかれてはいない。ただし、だから、とシニックな相対主義に陥るべきではない。問題は、そうしたメタ判断によって相手の言説の内容そのものの検討に先入見をもったり、検討を自らに免除してしまうことで、そうした詮索そのものではない。意図や動機ではなく、テキストの表現された限りでの目的へと焦点をずらせば、敢えて書いた、自己と異なる意見は、バフチン的に、自己の声の中に、対話相手として響く反論者の声だ。そこにこそ、本当の声というものが、もしあるのならむしろ漏れ出てくるという言い方もできるだろう。作者は死んでいるのだから、死者がまじめに述べたのかどうかなどというのは、遠い昔のエピソードにすぎない。エピソードとしては面白いけれども。
意志や精神力が、環境の制約の例外ではないということは、自己の苦境を他の責任に帰することを可能にするだろうか。実はそんなことはない。自分にとって、何ができることで、何ができないことかということは、やってみないとわからないのだから、つねに自分を、その可能性において過大評価すべきであり、実力において等身大に見るべきだ。たとえば、「自分は常に怠けていると考えよ。そして、他人は常に環境によって自分の責任ではない苦境に陥っていると考えよ。」そういう不公平な基準はそれなりに正当だ。(ただし、それを強いる権利は誰にもない。苦境にある人が自罰的になることが、当人にとってよく働くかどうかは、まったく持って状況しだいであり、他人が決めることではない)できることは何かという正確な線は、ひとは相手の内面生活など知りようがないのだから、自分と他人では評価基準が違うべきだということを意味するからだ。
要約すれば、一般的なファンタジーと異なり、意志や精神力もまた、リソースを必要とし、それを消費する。精神的なものもまた無料ではない。精神的なリソースは物質的なものとは限らないけれども、おおむね金銭的窮乏にともなって欠落していく。それは思考するための余暇や、ある種の思考のスタイルの習慣や、愛情や励ましをもたらす同胞の存在であったりする。信用も、教養もそういうものだろう。精神的なものだけは無から生み出せるというのが嘘だということだけにすぎない。そのことは、別に免責の言説でもなんでもないだろう。そのひとにそうしたリソースがあるかどうかが個別に検討されるべきだからだ。あることに「気がつく」かどうか、「その気になる」かどうか、それは、決して、そのひととおかれている状況と、独立してはいない。それは、それ以上でもそれ以下でもない。ただの事実だ。
ソビエト型社会主義と、アメリカン・ドリームの共通点は、英雄を必要とすることだ。セルフ・ヘルプ、意志と努力の人、なるほど、彼や彼女は立派だ。しかし、英雄の存在は英雄の切り抜けた困難が、絶対的不可能ではないことを証明するが、非常な困難でないことはまったく証明しない。むしろ、英雄への賞賛こそが、暗黙のうちに、困難の実在を静かに語ってやまない。そして面白いのは、そうした、英雄たちは、誰よりも、自分がそうであった、そうなりかねなかった人々に厳しい。それは階級上昇した貧困者がひたすら上層の価値観に同化しようとし、下層にいっさいの共感を示さないのと似ている。(かれらは区別しなければならないのだ)そういう上昇した移民の態度というのは、アメリカの小説を呼んでいるとよく出てきて面白い。自分にだってできたのだから。しかし、かれらと自分は、本当に状況は同じなのだろうか。(人は忘れ、状況は見掛けは同じでも変わっていく)そしてなにより、社会経済的に何ができるかを考えるとき、余分の努力、凄い人、立派な人を、基準にして裁くのは、あきらかに倒錯している。下層は、強い意志と余分の努力の人であることを強いられ、普通であることは許されない。普通であることが許されないことこそ、不正の実在を語っているはずなのに。事実問題としてそういうものが必要だということと、そういうものが必要とされることは正当かということは、当然に、別問題だ。
状況をニーチェ的な強者の論理(すべてを、たとえ虚構的にであれ、私の責任、選択として引き受ける)で見るべきというのは、自己啓発セミナー的ではあるが、それなりに正しいだろう。しかし、それを他者を裁くのに用いることは傲慢以外の何者でもない。そしてしばしば、不思議なことに、他者に強者の論理を適用するのは、自分に対しては、「おしまいの人間」のごとく、現状維持を志向する人々なのである。フェアプレイを意図するなら、相手のハンデを支援すべきだ。それは同情の禁止の倫理と完全に両立する、誇りの論理だ。ニーチェは同時代の社会主義者を、民族主義者・国粋主義者を嫌悪したのと同じく嫌悪したが、しかし、支援は同情ではなく矜持によってこそ、むしろ必然なのではないか。