メディアリテラシー、あるいは解釈の優劣を競うことのむなしさ

http://d.hatena.ne.jp/odanakanaoki/20060725#1153746892

メディア・リテラシーについては以前書いた。

http://d.hatena.ne.jp/jouno/20041206/1102344331

今読み返すと、かなり読みにくい文体で、いろいろ考えが変わっているところもある。(教育の必要、とか)しかし、あの頃から、メディアリテラシーを唱えることに感じる胡散臭さというのは、少しも変わっていない。そこで、改めて、いったいぜんたい、何故、安易なメディアリテラシー意識が、結果として、読み手が、自分の解釈で、テキストを好き勝手に判断してよい、テキストを尊重しなくていい、という陰謀論的な方向に向かってしまうのか、ということを考えてみた。

第一に、そして最終的に、基本にあるのは、われわれは、判断せざるを得ない、ということがある。メディアリテラシーは、少なくともその流布バージョンは、原則として、「何を疑うべきか」ということは教えるが、「何を信用すべきか」を教えることができない。これは相対主義から保守主義へのコース一般にいえることでもある。メディアの情報をすべて遮断したり無視したりしないのであれば、われわれは、「何を信用するか」という課題を持たざるをえない。しかし、メディアリテラシーは、われわれに何も信用するなといい、それが何であれ、われわれにそれを信用しない根拠を与えてくれる。「何かを信用しなければいけない一方で、何でも好きなものを信用しない根拠だけは手元にある」という状況では、われわれは消去法の見せ掛けにおいて、「あたかも仕方なく、であるかのように」、望むものを根拠なく信用することができる。なんにせよ、「何を信用するか」において基準がなく、「何を信用しないか」において基準がある、というとき、選択に恣意性が、しかも「消去法によって擬似的に根拠付けられた」恣意性が紛れ込むのは必然の結果だ。わたしたちは、冷静であること、いやいや判断しており、事実によって強いられている受動態であると思われたいと「心から強く」願っている。しかし、その欲望の強さこそが、われわれの論争的な偏向を何よりも証拠立てる。

もうひとつは、このわれらが解釈の時代に特有のことだけれども、誰もが、解釈だけでは正解にはたどり着けないし、逆にむしろ、解釈だけで正解にたどり着いたとしてもそれは偶然に過ぎないのだということを、忘れ去り、無視している。算数を習ったとき、答えだけがあっていてもいけない、式があっていないといけません、と言われたものだ。「もっとも適切な解釈」と「事実に即した解釈」はイコールではない。同じだけ情報しかないなら、もっとも合理的で適切な解釈というのを論じることには意味がある。このいわば「解釈論争」で勝つということは、事実に近づくことを意味するだろうか。残念ながら、必ずしもそうではない。「解釈としては正しくても事実としては間違っている」ということは、いくらでもありうる。しかし、そのことは、限られた情報の中で合理的に振舞うために、「適切な解釈」にリスク込みで賭けることを否定する根拠にはならない。しかし、逆に言えば、解釈の優劣というのは、それだけのものである。それ以上でも以下でもない。

一方では「解釈からいってそんなことはありえない」という整合性にもとづく蓋然的判断が、あたかも実証と同じレベルのものとして断定的に通用してしまうことが起こる。(……そんなことをなさる筈が……)それは実証だけを根拠にするなら起こりうるけれども、それでは私の解釈と整合性を欠く、などという論証は、ほとんど論証ではない。データの真理性そのものを既存の解釈との整合性が判断してしまうなら、解釈は自らを脅かすデータに出会うことができない。また、他方では、たまたま自分の解釈が事実に即していたからといって、論証過程を問わずに、もっとも、その時点で与えられていた情報から判断する限りで適切な解釈を選択した人々を嘲笑する人々も現れる。どちらの場合でも、自分たちが限定された条件のもとにいる、という認識の欠如が問題なのだ。

もちろん、すべてのメッセージはパフォーマンスとしての性格を持っており、そこに利害関心を読んだ上で、意識的・無意識的な歪曲に対して、修正を加えるべきだ、というのは、一応のところ正しい。しかし、そのように語り手にわれわれが想定する偏向によってメッセージを読み替えてしまうなら、そのわれわれが送り手の偏向についてもつ想定は、どのようにして変更されうるのか。そのレッテルの検証は、絶望的に困難になってしまうのではないか。誰が偏向しているか、という想定・レッテルこそが、もっともわれわれの主義主張という偏向によって恣意的に決定されることは、ばかばかしいほど日常的にわれわれが見せ付けられていることではないか。解釈学的循環、と人は言うかもしれない。たしかに、この状況は見かけほど自閉的で恣意的な状況ではない。見かけは悪循環のようでも、こういう循環を経て真実にたどり着くということが不可能ではないのは、自然科学をみればわかる。しかし、それは、あくまでも、検証が多様でありえるという条件のもとでのことである。つまり、解釈学的循環のような、一般的なループ状況に対して、メディアリテラシーをめぐる状況の救いがたさをもたらしているひとつの条件がある。それは、「送り手による判断」だけによっては、「送り手についての判断」は訂正されえない、ということだ。「送り手についての判断」は「送り手による判断」以外の方法によっても評価されたデータ、メッセージによってしか修正されえない。だから、俗流メディアリテラシーが唯一のもののように振り回す「人による判断」は、本来、複数の判断基準のひとつとしてしか、それ自体の有効性すら担保できない。ひとは既存の解釈や評価との整合性を無意識に重く見るものであり、あいまいな状況下では、「誰が何のために」という根拠からする判断ほど、それ自身の効果で累乗的にエスカレートするものはない。その行き着く先は、単に「党派的な」だけの判断だ。しかし、われわれは、このプロセスを、まさに、党派的であるまいとして始めたのではなかったか。

洗脳されまい、洗脳しようとしているように見えたくない、というのは、畢竟、論争的な配慮である。問うべきは、誰に同意するかではない。何に同意するかだ。反作用としての「用心」は、決してわれわれを真実へと近づけない。いわゆるメディアリテラシーは拒否の身振りであって、追求の身振りではない。拒否の身振りだけでは、われわれが何者かに落ち込むのを防ぐことはできない。突き止めるということ、考えるということは、問うことであって、答えることではない。どのような場合に信用しないか、ではなく、どのような場合に、そしてなによりも「どの程度だけ」信用するか、ということをこそ、考えるべきではないだろうか。すべてのひとを信用しないということは、畢竟独善に陥ることでしかない。特定の或る他者、教説だけを盲信するのと、自分だけ、自分の教説だけを盲信するのとでは、どれだけ距離があるというのだろうか。