普遍をいかにして実効性あるものにするか

 外国人に対する人権意識が低下しているというニュースを読んだ。不況で余裕がなくなっているせいだ、というのはマクロにはただしい感想だろう。

 ところで気になるのは、このニュースで、外国人の人権を日本人と同じように守るべきだと思いますか、という問いかけがされ、それに対して否定的なこたえがかなりの量にのぼったということが報じられている。

 問題はこの結果、というよりも、この応答の様式そのものにこそ著しい、とぼくはおもう。あなたは違和感を持っただろうか。実は、この応答の形式を容認した上で、外国人にも人権を認めるべきだ、と、まさしく、曖昧なリベラルな言説を発しても、しようがないのである。

 ひとつめに根本的に問題なのは、外国人の人権を守るべきかという問いは何重にも言葉の使い方からして逆立ちしているということだ。

 人権というのは、ひとの権利、ということだ。これは、いいかえると、ひとであるかぎり、ほかに絶対にいかなる条件もつけないでもつ権利、ひとであるということだけが条件であって、それ以外にはどんな、深刻であれ、緊急であれ、やむをえないものであれ、なんであれ、どんな理由でも制限をつけない、絶対最低限の、そして最大限の普遍性においての権利、という意味だ。

 日本の一般的思考の様式は、こういう場合、それでも特例というものがありうると考える。場合によらないこと、ことと次第によらないことはない、と考えがちである。しかし、本来、人権という思想、普遍というものは、日本語では表現できない数学的な厳密さで、例外なし、という意味なのである。

 だから、外国人に人権を認める、というのは、立場としてどうこういう以前に、言葉の用法が間違っている。外国人に人権があるということは、そしていったん人権があるのなら全面的に留保なくすべての人権があるのであって部分的にというのではない、ということは、人権という言葉の「定義」にあることであって、もしもそのようなものとして、具体的に想定している外国人の権利をみなさないならば、そのひとは、外国人の人権を認めていないのではない、その権利を人権に属する権利とは認めていない、というべきなのである。

 より基本的なことだが、人権は、ある、存在する、所有するものであって、守られたり、認められてはじめて発生するものではない。だから、本当は、人権をあたかも「与える」かのごときニュアンスで「認める」と書くことは、自然権という思想に対する根源的な批判であって、おおいに「事件」であるべきなのである。

 たとえば、わたしがあるひとを「ひと」であると認め、かつ、ある権利を「人権」であると認めたら、わたしは、絶対に何の留保もなく、その権利がそのひとにあることを認めなければならない。これにはいかなる例外もない。数学的な厳密さで、どれほどわたしの想像力を超える事態が起きようと無関係に、この数式は正しい。

 だからといってわたしは批判をできない、というわけではなくて、批判をするなら、そのひとが「ひと」であることを否認するか、その権利が人権に属することを否認するか、どちらかの方法しかないし、そうすべきだということである。

 そしてこの「数学的に厳密に留保がない」ということこそ普遍ということだ。わたしたちはしばしば普遍を理解しないし、普遍というものがどれだけいざというとき有効なものかも知らない。人権というのは、だれもあなたに同情せず、どこにもあなたに情状酌量の余地がなく、極悪非道の最悪の人間とみなされ、などなどのときでさえ、あなたにのこされる「絶対の最低限ライン保証」のことだ。

 わたしたちはつねに具体的な状況においては間違う。また、具体的な権力は常に正義を行うとは限らない。自然権や、憲法という思想は、そういうときの「政治的最低保証」のためにある。そのことを忘れて、権利を、「特別の許し、許容事項」として把握したとき、どれほど制度だけが整っていようと、そうした権利や保障は有名無実というほかはない。