vermilion::text in 84F room 25 "witch talk" β

 ねえ、とイシスは珍しくイナンナに自分から声を掛けた。イナンナはちょうどひとつ下の階層の悲惨を愉楽していたところだったから反応は不機嫌だった。「なによ、まるで梟に襲われたヘーゲルみたいな顔して」「また誰か上を目指そうだなんて陳腐な祈願をもった者が来るわよ」「そうね、イナンナ、あなたは無限を認めないといつか云ってたわね」「vermilionは愚者たちの夢の場なのよ、集合的な無意識の中で忘れ去られた物語の断片が浮かび上がってくるんだわ」「あらあら、あなたはウィーンであの奇妙な男に診察されたことがあるに違いないわ」
 部屋とは名ばかりのその神殿は見るからに廃墟であった。見渡す限りの密林の中に滅び去った文明の記念碑として崩れようとしながら残存しつづける神殿の石段に、退屈そうに二人は座っている。天はうつくしい青に染められたドームだが、あまりの高さに本物と区別はつかない。だが……と、ときとしてイシスは考える。外よりも内側が大きいというのはユークリッドの悪夢に違いないわね。
 イナンナは気だるそうに立ち上がると「そう、かつてわたしは聞いたわ。わたしが小娘だったころ、哲学の慰めも知らず、ひとえに天上の神様を信じていたころよ、そのころひとはこういったわ、どんなものにも頂上があり、そのうえには空があって、神様がすべてをおさめていると。けれどわたしは知ってしまったの。vermilionは無限を内蔵してそれよりも高く広く、神様に想像力は決してたどり着けないことを。そしてわたしは別のとき、ある湖に傍らで、死に行くものに伝説を教えてもらったの。頂上には確かにひとつの部屋があるのだわ、それは煤けた、ぱっとしない物置のような部屋で、狭くて、退屈で、すべてがすすけていて、そのくせ魅力的な闇などなく、そこからどこへも続いていなくて、天井には、まるでこどもが書きなぐったような文字で、空を見上げるものは視力を奪われるだろうと書いてあるのよ、そしてそこでの一千年こそが、ひとがあこがれる永遠というやつの正体なんだわ」イシスは振り向きもせず冷淡に「スタヴローギンね、剽窃はよしたら」
 誇りを傷つけられたようにイナンナは手近の岩(かつて王たちのかがやかしい業績を記念した碑銘であり、つる草に覆われてゆっくりと自然へと溶けようとしていた)にしずかな優雅な動作で触れた。するとその岩は音もなく崩れ去った。
 「好奇心は猫を殺し、恐怖は眠りを殺す、わたしは永遠というものが許せないのよ」
 「それはわたしたちが『永遠』に縛り付けられているから?」
 と、何処かで鐘の鳴る音がした。