で、ウィトゲンシュタインに言及している人がいたので、再掲。

http://d.hatena.ne.jp/K2Da/20030425#p1

かれの「探求」の哲学を知ってると面白いかも。

猫 [ねこ]

 純粋猫というものがいた、ということをわたしが知ったのは飼いネコのメルロとポンティの兄弟があるとき持ってきた古新聞を見たのがきっかけだった。かれらはネコにしてはめずらしく何かしら拾ってはくわえてもって帰ってくる。そういうところが、犬だったころの祖先の血が現れているところなのかもしれない。その古新聞には鉛筆で殴り書きのようにしてアドレスが載っていた。好奇心をおこしたわたしが彼らに食事をあたえてからつないで見ると、そこでは幾度も認証を求められ、ようやくたどり着いたのが、最後の純粋猫の持ち主のメッセージだったのだ。猫というものがはじめから別の種としてあったことを知らなかったわたしは、それをよくできたフィクションだと考えていたのだが、やがて、奇妙な事件がおきた。

 それは、次第にひろまっていくネコたちの疫病のニュースから始まった。連日、ニュースはネコたちがけっして目覚めない、しかし生命はどこにも異常のないいわゆる「猫の眠り」に陥ったというしらせをながした。植物状態にちかい深い眠りのなかで、ネコたちはまるで純粋猫たちの鳴き声のような寝言をつぶやくのだという噂がながれていた。

 わたしはメルロとポンティの心配をしながら、そうしたニュースを不安とともにひどく魅惑されてながめていた。すでに去っていた妻からはもう葉書さえ絶えており、引き取られた子供たちに会いに行ってもきまづい、白い午後がひきのばされたように訪れるだけのわたしには、ただ、かれらだけが愛の対象だったのだ。

 なんとなく、やがて純粋猫のことが気になってわたしは、あのアドレスにもう一度アクセスしてみた。すると、ページは消されていて、ひとことだけメッセージがしるされていた。それは、ドイツ語で、「いかなるねこも存在しない」、とかかれていた。わたしはその言葉につきはなされたのだが、不思議な希望をこころに抱いた。いまでもそのことだけは説明できない。しかし、わたしは猛然と純粋猫について調べ始めた。そのうちにも、「猫の眠り」はひろがっていき、さまざまな仮説がたてられては反駁されていた。

 やがて、わたしはひとつの確信に達した。あのメッセージを残した男が、ひとつだけ忘れていたことがある。それは晩年のウィトニャンシュタインは何をしていたのかということなのだ。暗殺される直前のかれの生活はなぞに包まれており、誰もがそれを知ることはない。何度も足を棒にして歩き回ったわたしは、ついにアメリカの片田舎の図書館で、その文書をみつけたのだった。それは、古びた便箋に走り書きされたメモで、晩年のウィトニャンシュタインから、ロシアに住む、唯物論派でありながら彼の忠実な友人でありつづけた詩人のバフニャンへ送られる予定だったものらしかった。かれは、こんなことを書いている。

 あなたに同意して、わたしは対話が何よりも重要なものだと思います、そして、わたしは、自分の発言がおこしたこの騒動に、ひとつの終止符を、あるいは希望を与えたいと願うのです。かつてわたしは、純粋猫の存在を示唆しました。チェシャ猫がなおも猫でありつづけるからには、そのような存在が必要だと考えたからです。しかし、いまわたしは人々の裏切りや転変を見ながら、世界とはもっと豊穣なものだと思い始めています。希望とは、ひとつの哲学がもつことのできる祝福のようなものでしょう。

 ・・・(中略)・・・猫の本質とはなんでしょうか。いいえ、そのような問いにわたしは決別することができたと信じています。犬たちと猫たちの対話のために、そして、詩人であるあなたの領域でしょうが、言葉というものの持つ力への信頼のために、いま、わたしはこう考えているのです。猫とは、人々が猫と呼び、それを愛するもののことだと。猫という言葉の中には、ひとつの思い出、ひとつの暖炉、ひとつの記憶、そして無数の思いが込められているでしょう。そこには猫という形をとった人々の生活があり生があるのです。起源や本質ではなく、猫とは、猫のように愛されるものではないか、もしかすると、いつか猫が滅んだとしても、純粋猫がいるからではなく、人々の猫をなでるしぐさや、猫という言葉のやさしさゆえに、猫はあらわれずにはすまないのでしょうか。人々は終わりのない猫というゲームのなかで、愛したり憎んだりしているのではないでしょうか。

 それに、わたしは思うのですよ、親愛なる詩人よ、猫とはいつも、われわれからすり抜ける気ままな生き物ではなかったか、とね。だからわたしは、こうもいえると思うのです。すべてのねこは存在しない、そして、猫をつかまえることはできない、と。

 この走り書きは、かれが三日後に暗殺されたために投函されなかったらしい。この走り書きを読んでわたしはますます確信をつよめた。やがて、世界中にひろがった「猫の眠り」はすべてのネコたちを静かな眠りにさそい、その夢のなかでネコたちは、あの哲学者の言葉がかけた祝福と出会い、徐々にその体さえかつての猫たちのものへと変容していくだろう。そして、その新たな猫たちはたしかにまだかつての純粋猫とは違っているかもしれないけれど、どんな遺伝子操作によっても得ることができない、あの気ままさと、猫という概念から逃れ去るというあの猫の本質を手に入れるのではないだろうか。ネコたちをどこか縛っていた、あの不自然な純粋猫への恐れを脱ぎ捨てて。そのとき、きっと人々は純粋猫とはなんだったのか知るのだろう。わたしはそう思うのだ。それはわたしの妄想だろうか、しかしわたしには確信があった。

 数日たって、メルロとポンティがついに眠りについた。わたしはかれらを寝かしつけ、しずかな、滅びに瀕したように静かな町並みをあるきはじめた。誰一人として声はなく、奇妙な長やかさが世界を覆っていた。疫病が人間に感染しないかどうすらわからないままにパニックにおちいっていた先日までの世界とはことなり、空白がすべてを支配しているようだった。

 言葉が世界を直接かえてしまうということがあるだろうか。かつてわたしはそんなことを信じてはいなかった。いま、わたしはウィトニャンシュタインの言葉が、変容をながいあいだをかけて変えたのだと信じている。それは、呪術のようなものではない。猫であるということは、人とともに生きるひとつの根源的形式なのだ。人々が、かれの言葉の遠い波紋によって、(そうだあの投函されなかったメモはどうしてあんな場所にあったのだろう)人々が猫との付き合い方を忘れなかったからこそ、蓄積された形式の祝福は、現実を変容させたのではないだろうか。

 わたしは、そうして家に戻り、床についた。

 夢の中で、あの哲学者の微笑をみたような気がした。

 そして、わたしは何かが胸に乗っている感触で目を覚ました。

 目を開けると、メルロとポンティはめんどうくさそうに、

 にゃあん、と鳴いた。(00/08/12)