キーワード

id:indigoworksさん id:masproさん その他。
追記。うえの二人のかたへの言及はあくまで、関連の話題を書いておられたので、トラックバックのためのものです。以下の言及が、お二方を指すわけではありません。あいまいな書き方をお詫びします。

まず事実関係を整理したい。id:yhleeさんが故なく侮辱を受け、それに抗議した、という事実関係と、日本人キーワードの編集のことは直接関係がない。このことははっきりさせておきたい。id:yhleeさんが、とくに突出して日本人キーワードの内容について、積極的に動いたり、何度も書き直したり、キーワードでの議論で活発に発言したというわけでもない。実際、id:yhleeさんが編集したときの内容は、日本国籍を所有するものという定義をされていた。

http://d.hatena.ne.jp/yukatti/20030426#p1
キーワード内容の変遷その他、経緯。
http://d.hatena.ne.jp/yhlee/20030428#p3
誹謗発言の対象となった記事。この記事からのリファラ
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20030428#p2
と返事がなされた。
ここで前史として在日キーワードのことが触れられているが、それは
http://d.hatena.ne.jp/yhlee/20030211#1044920830
ということがあったからです。

id:yhleeさんが、キーワードの編集についてかたるついでに、過去の「在日」というキーワードの編集のことを、とくに侮辱的なやりかたでもなく事実関係としてid:lovelovedogさん(google:愛・蔵太)に触れた、そのリファラーに反応して、かれが「既知外」と罵倒をした、そういうことです。ですから、キーワードの内容の議論がどうなろうと、これはこれとして、独立して問題とすべきことだと考えます。したがって、日本人キーワードが、日本国民以外の説明の存在で議論となったことについて、id:yhleeさんに文句を持ち込むのは、完全に筋違いです。

経緯を見て判断していただきたいけれども、わたしは、よんひゃんさんが異常な対応や感情的な行動をとったとは到底思われない。きわめて穏当な対応をされていると思う。根拠もなく精神異常扱いされ、匿名で侮辱され、事実と異なる理解をされ(繰り返すが、キーワードや日記の記述に検閲的に対応したというのはまったく事実に反する。対応したのは主に、日本人キーワードが日本語を話す、日本民族という定義が並列的にかかれていたことに疑義を呈したことと、血統主義などの事実関係を訂正したこと、そして面と向かって罵倒されたことに釈明を求めたことくらいである)たことを考えれば、十分に良識的である。

で、日本人キーワードについての考えを書かせていただく。
まずすでに書いたことは、http://d.hatena.ne.jp/jouno/20030502#1051816291

id:memn0ckさんがいわれるとおり、たしかに辞書的定義であり、客観性を持つためには、建前として日本国民、国籍所有者でいいというのはそうです。そういう意味で、ほかの用法を注釈として、というのはたしかによい方法だと思いました。

ではなぜ、ほかの用法もなんらかの形で入れたほうがいいとわたしは思うのか。

(ここでやはり経緯について事実関係を。id:yukattiさんがかかれているとおり、国籍保持者以外の定義は当初から存在しました。議論はむしろ、その独断的な並列のニュアンスをやわらげたほうがいいというニュアンスで発生したのです。余計な定義を議論が付加した、というふうにみなすのは、その意味で事実誤認です。また、議論はキーワードでのコメント欄でのものは基本的に穏やかなトーンで進んでいます。これをして、もめている、喧嘩と称するのはいいすぎです。たしかに、id:hosiさんとは多少行き違いがありましたが、全体的な議論のトーンはやはり平静なものでした)

 理由は簡単です。わたしたちは多くの場合、日本国籍保持者の意味で日本人という単語を使用していないからです。それは、日本人という言葉がふかく単一民族国家幻想と関係しているからだと思いますが、ともかく、文化的、人種的、民族的内容を漠然とさす用法のほうがはるかに一般的です。

 したがって、とくに日記のような個人的な意識で書く場合、日本人は味噌汁が好きだ、とか、日本人はRとLの発音が区別しにくいとか、そういう用法はいくらでもありえます。問題はそこで、そこからキーワードに飛んだとき、日本国籍保持者という定義だけがかかれていたとします。そのとき、日本国籍保持者と、もとの記述の人種的民族的概念としての日本人がイコールでむすばれてしまうのではないか、と危惧します。一方に属し他方に属さない少なくない人々が意識から消えてしまうのです。

もちろん、逆に、そういう定義をみて、ああ、この日記の日本人という用法は通俗的、あるいは誤用、主観的用法なんだな、と思うこともありうるでしょう。

どちらもありえます。ただ、わたしは、不当な同一視を強化するという危惧のほうを感じる、ということです。