せいじてき

http://d.hatena.ne.jp/kouda_dc/20030717#1058394913
或る行為を政治的だと語ることは、その出来事の政治的関係性の部分に、干渉すること、関与することに意味を認めることだと思う。パレスチナで壁に落書きをすることは政治的だ。アメリカで壁に「大量破壊兵器は見つかりません」と書くことも政治的だ。だがそれは同時にジョークでもあり、鬱屈したいかりのはけ口でもあるだろうし、たとえパレスチナの民衆の切実な声として政治的な落書きであっても、それが書かれた人にとって迷惑でありうることはまったく変わりない。
政治とは事柄を情況の函数として捉えることだから、いまこの日本のこの情況で、壁に落書きを持つことで立ち上がる出来事の連鎖関係をどう見るか、ということになるのではないか。
たとえそれが見えないものや暗黙のものであろうと暴力によって見えなくされている抑圧があって、それをあばき、声をあげさせることに成功していれば、政治的に落書きを見ることは一定の意味を持つだろう。
たとえば、落書きを政治的な面に着目してサポートすることで、われわれは何か、肯定的な変化を情況に引き起こすことができるだろうか、それともそのバランスシートはマイナスだろうか、そう問うべきなのではないか。そうではないなら、より効果的な情況への不穏な逸脱はどういうものがありえたのか。
その本質において不穏であること、逸脱的であることは、状況を変えるためには必要条件だろうが、十分条件ではない。また、その本質において不穏であっても、それが不穏なものとして認識されることが必要なわけでもない。身を隠した不穏さこそが有効かもしれないのだ。
そこで、逆から考えよう。壁に落書きがないということは、われわれの情況の不正や不快さとどういう関係にあるか。それとも関係はないのか。
たとえばネットがなくて、言論が抑圧されているとき、壁はメディアであった。この情況においては、徹底的に落書きは肯定的に政治的でありえたといっていいだろう。そして、幾分かは、ネットが代替し得ない層においては、日本でも潜在的にはそうだろう。だが、わたしたちは、いま、かならずしもメディアとしての壁を、必要としているわけではない。
同じ方向から言えば、仮に、かつての個人ラジオ局(海賊ラジオが対抗的政治性を帯びていたことなど誰が覚えているだろうか)のように、逆探知が難しいテレビ放送の簡易なセットが普及することがあれば、それはきわめて政治的なカウンターメディアたりうるだろう。ネットのコンボで、携帯はそういうものになりうるかもしれない。だがそれは予断を許さないし、いまはそうなりそうではない。(そう、ソビエト・ロシアでは、日曜にタイプライターで友人の原稿をタイプすることは政治的行為だった。そうして複製されることでいくたの書物が流通したのだ)
文化的なコードや抑圧をシンボルや儀式の次元で侵犯することはそれなりに大事なことかもしれないが、かりに政治性をうんぬんするなら、そうしたプラグマチックな、「有用性」こそが問われてしかるべきだと思う。

(しかし一貧書生に過ぎないわたしには、現状が構造的な変革を必要とするのか、基本的にはうまくいっていて漸進的になんとかうまくいくはずなのかも、あまり判断がつかないくらいなのだ。あの悲惨やこの幸福はどれだけ、大きな構造の効果なのだろうか、それとも僥倖なのだろうか)