http://d.hatena.ne.jp/mutronix/20030801#p1

うーん、ぼくはAとBは直接に同じレイヤーで矛盾しているように見えるんですが。できる、とやってもよい、なら、レイヤーが違います。しかし、まさに対立は、できるかどうかの次元ではなく、ではなく、やってもいいかどうかの次元の話なのでは。それに、「構築する」かどうかはそもそも争点として選択の余地がある話ではなく、入会時に規約に同意した時点で、Bの話に必然的になるのではとおもうんですが。それとぼくは、「できる」ということは承認しますし、本来システム的に対処したほうがいい、というのも承認しますが、Aの「仕方がない」の部分からもう同意できないです。

ぼくにはレイヤーの違いというとき、どこに線を引いておられるのかよくわからないです。

それと、「私」の露出ということですが、どういう使いかたをしていて、書き手がどういうつもりで、どういうスタンス、位置付けでいようと、責任の取り方や範囲がそれで変わるとは僕にはあまり思えないのですが。

簡潔にいえば、わたしの主張は、そのような約束の共同性を構築すべきとぼくはいっていたのではありません。それは違います。入会時に規約に同意して利用しているんだから、そのような約束の共同性のなかにすでにわれわれはいる、そういっているんです。すでにそれは構築されているといっているわけです。だから、対立はレイヤーの違うものではない、と僕は思っています。

追記
* A)システム的にできることはできてしまうから仕方ない、だからできてしまうことは何をやってもよい。
* B)ルールがあってそれを守るという契約をした以上それを遵守すべきでは。気に入らなければルールを改変することを考えるもの。

うーん、そもそもおっしゃっていることがわからないのでぐるぐると書くことになるんですが、Aがなりたつことを前提に、と書いておられますが、それはAの全体をさしているのか、どこかの部分だけなのか。ともあれ、すくなくともそれがぼくの主張のことであるなら、ぼくはAを全面的に認めてないので、それを前提にしてBを構築するという発想はないです。ぼくが受け入れることができるのは、「事実問題」として「できてしまう」までです。そこからの「から仕方がない」というときの仕方がないという言葉が「対処の方法がない」という意味なのか「倫理的に許容されるべきだ」という意味なのか、どっちなのかわかりませんが、後者なら、ぼくはそれは受け入れません。前者の事実認識なら、共有していますが、それは「やってもよい」にはまったく結びつかないと思います。