プラトン風

  • ぼくは「精神的な愛」の表現が意図から離れすぎることになるとは思わない。むしろこの文脈ではこの方が適切だと思う。ここでプラトンを引き合い出す必然性は全然ない。プラトニック・ラブがここで精神的な愛という意味しかなく、しかも、プラトニック・ラブという表記ではかけないのだったら、そもそもプラトンへの言及を表現に含ませなければいいのである。
  • 文脈が、プラトン風の愛が精神的な愛を意味させようとしていることを否定するつもりはない。しかしそれはあくまでも作者がそうしようと意図しているんだなあと読者がわかるということに過ぎない。言葉はそのような知的理解によってのみ存在しているわけではない。問題視しているのは、プラトン風の愛という表現がプラトニック・ラブの意味を表すうえで持ち込む余計な連想や意味上の曖昧さは、フランス語からの直訳調であるという雰囲気を添えるのに役立っているという仮説が仮に正しいとしても、そのメリットをしのぐデメリットである、といっているので、読者が、プラトニック・ラブの意味であると推測可能であるということを否定しているのではなく、そのように推測できたとしても、読書経験として、そのようなノイズを経験するということを排除することは出来ない。それはつまり、わたしとあなたがいまこの瞬間から馬鹿という言葉を利口という意味で使おうと取り決めたとしても、それで馬鹿といわれたときにむっとすることを排除できないのと同じである。わたしはそのような言葉に無理をさせるだけのメリットや必然性があるとは到底思えない、いいかえれば、ここで、プラトン風という言い方をしなければいけないとは思えない。精神的な愛で十分であり、もしプラトニック・ラブと語感の上でいえないのなら不要な意味上の随伴効果をともなうプラトン風という言い方を避けるより適切な言い回しは山ほどある。プラトン風という表現を目にしたとき惹起させるプラトニック・ラブ以外の解釈の余地やその意味的な効果は、ここでは読む上で基本的にノイズとなっている。そしてそのようなノイズを経験することは「プラトンの知識に固執する」という主体的な選択による行為ではない。不可避的にそうなる、ということである。また、ここでフランス人が話者であるという「設定」であることは、文章がフランス語からの翻訳調で書かれる理由にはならない。なぜなら、地の分は事実であるという約束事があるかぎり、また事実としても、そのような書き方をしていなくて、設定の上ではフランス語からの翻訳ということになっている小説はいくらでも考えられるからである。したがって、翻訳調で文章を書く必然性の理由にそういう設定であるということはならないし、その必然性を仮定した上でも、翻訳調にするということから、必然的にプラトニック・ラブをプラトン風と書く理由にもならない。プラトニック・ラブの翻訳調の表記はほかにも考えられるからである。実際、ルビをつけることもできるし、「いわゆるプラトン風の愛」と書くことも出来る。
  • プラトン風の愛がプラトニック・ラブの意味で使われていると知的に推測、憶測できるというレベルで否定しているわけではなく、そこにすれ違いがあると思う。そうではなく、プラトニック・ラブをプラトン風と表記することで必然的に読者が主観的なつもりや理解度に無関係に不可避的に経験する意味的なノイズやあいまいさは、作者の翻訳であるということを示す雰囲気作りとしての効果というメリットによっては正当化できないデメリットである、といっているのである。