島宇宙化

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ぼくは宮台さんの援助交際擁護自体胡散臭いものだとおもっていたのでその点で方向転換自体にはあんまり関心がないのですが、この島宇宙化については本当にことあるごとに痛感していて、まったくもってこの傾向を何とかしないとろくな思想は出てこないと思うし、ミクロな日常のレベルで息苦しさが消えないと思う。

島宇宙化にはいくつかの副作用がある。たとえば、「構造への視線を欠いた実証主義」、ウェーバー風にいえば精神なき専門人である。実証主義が、事実とは何であるか、という物語論的な、あるいは歴史論的な反省を欠いていたら、それは不思議なほど結論が証拠の集積と無関係に、常識的な結論に落ち着いてしまうという奇妙な事態を招く。実証は解釈を排除できるという素朴な信念がそこで素朴な常識をささえてしまうからだ。算術的に事実を集積してもただしい結論にはたどり着かない。(「観察の理論負荷性」をたとえば検索してみてほしい。)

また、対話への嫌悪も生まれる。あるいは、対話において、相手が提案する普遍を、主観に過ぎないと片付けることで葬る論法が現れる。もちろん、この場合、自分の意見も主観に過ぎないと主張するか、前述の実証主義によって事実であると主張することで、抱き合わせで葬ってしまうのである。問題なのは、主観から普遍を抽象する論理の正当性である。それが主観に発するものであることは、それが普遍性を持たないことの理由にはならない。この意味での不思議な潔癖さが日本人には強い気がする。それはたとえば、エゴイズムに発する善意は善意ではないというような偏った考えにもつながっていく。ある意味で、好きでやっていることはすべてエゴイズムと両立しているのであり、こうした問題系は本来、戦後文学で十分、議論されたことだったとぼくは思うのである。

問題なのは、われわれは何を共有できるか、もっとイデア論的にいえば、われわれは何を意識せずに共有しているのか、ということであり、その共有しているものこそが、普遍なのである。対話とは、その発見を目指すものであるべきなのだが、あたかも、そのような共有物は人為的なおしつけられた構成物としてしか存在しないし、またそのような押し付けはするべきではない、という議論がしょうけつを極めている。しかし、実際問題として、そのような相対主義にもかかわらず普遍的なものはいたるところに存在する。必要なのは、その一般性の程度を正確に見極めることなのである。

追記。まあ……そうはいっても構造主義以降の相対主義的な近代批判、形而上学批判の成果は当然、継承しないといけないわけで……、じゃあ、普遍を志向することと、普遍的なものの超越論的な裏付けを批判することはどう両立するのかというか、そのへんはむずかしいわけで、いちおうは、実体的な普遍は存在しないが、より普遍的でないということは合意できる場面がある、とぼくはおもっていたりする。そういう意味では反証可能性の考えに少し近いのかも。どうなんだろう。)