未来少年コナンを見ている

ラナ泣きすぎ。現在のアニメのヒロインの標準からいうと、ラナはすぐくじけるし泣く。でもそれが時代なのかも。もっとも、最近、一周して、また、つよい女の子ではない類型が萌えとかでもてはやされているような気もする。まあ、宮崎アニメなので、やっぱり根は気丈なんだけどね、ある意味、リアルなのかもしれない。ふつうは、というか本当は、これくらいの目にあったら、この程度にはくじけるだろうなあ。その意味ではシータやナウシカはただものではなさすぎるのかも。

あとこのアニメを見て思うのは、宮崎駿はつねにひとつの同一の作品のさまざまなバリエーションをつくってきたのだ、ということ。このことはほかの多くの作家にもあてはまることで、伊丹監督とか大江とかは歴然としてる。これはキャラクターの原型がすでにここで出来上がってるという意味ではない。というか、そういう意味ではあるんだけど、それだけではなくて、たとえば手塚のスターシステムとの違い、ということ。手塚のスターシステムでもキャラクターは使いまわされるんだけど、それはいわば役者として、キャラクターが出てくるので、宮崎アニメのように、人間関係の構図まで再現されはしない。やはり、かれは理念的なある作品のさまざまな側面から光を当てたバリエーションをつくっているのだ、というほうがぼくにはわかりやすい。そしてそのことは、けっしてマンネリということではない。むしろ創造的な作家の多くは常にそうしてきたのだから。むしろこれはキルケゴール的な、反復というやつだろう。

関係ないけど、ルパンと絵や質感や演出法が同じなのはスタッフが同じだから? ぼくくわしくないんだけど、それとも時代色なのかな。

気になったのは、テンドン(繰り返し)のギャグがうっとうしいということ。多分、絵が動く、ということのインパクトがまだ強くあって、動きのマイム的なギャグが面白かったんだろうけど、今見ると、いちばん、この繰り返しのギャグはいらないところだ。