シニカルなロマン主義
http://d.hatena.ne.jp/Ririka/20031016#1066360343
http://d.hatena.ne.jp/ykurihara/20031013#p2
http://d.hatena.ne.jp/noza/
http://8005.teacup.com/yskszk/bbs ほか
件の2ちゃん論は読んでいないのでなんともいえないのだけど。
(ちなみにロマン主義キーワードを編集した。詳しいひと修正してください)
まず、ネットや2ちゃんでシニカルな相対主義がドミナントになる理由は明確だと思う。ネット上での議論では、物証や場の雰囲気といったものを欠いているため、空理空論もリアルな議論も、同じ土俵で争わないといけない。つまり、ネット上では、論証的な強さだけが優越していて、実証的な強さの影響力が弱い。そのため、単に論証的な空間だけで議論をしていれば、ある程度あたまがよいアクターは、いつまででも議論を継続できるし、聞いている第三者もどっちが正当なのか、それほど簡単には判別がつかない。したがって、このような状況で、確実に自分のほうがより相対的に正当であることを示す方法は、積極的に自分の主張の正当性を、現実との関係で実証的な真偽において示すことではなくて、相手の主張の論理的矛盾を指摘することだ。
結局、敵失を指摘することでしか確実な勝利を得られない、という状況がある。なぜなら、実証的な真偽の吟味は、ネット上のコミュニケーションにおいて行うことは困難だからだ。したがって、いきおい論証的なものになる。敵失を指摘することがドミナントになるという傾向は、二つの傾向を必然的に導く。議論のメタ化とシニシズムである。相手の議論の意識しない前提が不合理なものであることを暴くこと、たとえば「私怨ウザイ」とか、相手の議論がナイーブなものであり、欠陥がある、すくなくとも確実なものではないということを指摘すること、「ピュア!」というのは、どちらも実証的な吟味を回避して論争的な次元の内部だけで論争に勝つ方法なのである。
しかし、シニシズムもメタ化も、それ自体は、積極的な主張を欠くため、対案を示すことができない。それゆえ、主観的にも、また論争相手からの反論としても(「文句いってるばかりじゃないか」)、ある種の焦燥感や苦境が出現する。故に、逆説的に、意見の内容にかかわらず、やみくもに、「実践」や「生活者」を称揚する態度も出現する。実存主義的なロマン主義といっていいと思う。
だが、このような実存主義的な決意主義は、ある意味で美的な決断として、「ともかく何か任意の立場をそれが正しいという傲慢な理由ではなく美的な行為として選択しそれに賭けるのだ」という立場に至るのだが、ここで問題が生じる。自分が正しいという根拠なき信念への反発として、また実証レベルの吟味が水掛け論になることを回避するための方策として、こうした実存主義的でロマン主義的な決断、賭けが選択されるとき、なぜかそれは、ほとんど必然のように、保守的で共同体主義的な立場と結果として一致してしまう。
この結果としての一致は、やがて、シニカルな「真理」への不信から「あえて」無根拠に、美的な選択をした層の、微妙な屈折が忘れられて、たんなるロマン主義になる。
この結果としての一致はおそらく、じつは必然的なものである。なぜなら、実存主義的な決断、ともかく見ているだけじゃなく参加することだ、というような立場には、不合理なもの、美的なものは、なにかわからないけれど、なにかユートピア的なものがあるという、単なるロマン主義と共通の夢想があるからだ。
また、共同体は、多数は、個人の小ざかしい理性よりも、理由はわからないが、真理に近いはずだ、というロマン主義的信念も、われわれへの民主主義的な教育の成果として、機能しているといえると思う。この多数決への、あるいは「共謀していない多数の期せざる意見の一致」を決定的判決とみなす多数決主義も、ネット上で論争が実証的吟味が困難であることから多くのひとが選択するモードであり、それゆえにそれがロマン主義へつながるルートとなっているといえるとおもう。しかしもちろん、それが本当に「期せざる一致」なのか、むしろ意識しない共通の背景、構造的なしくみがそういう一致を「演出」したのではないかと疑ってみることが必要なのである。
また、同様な理路として、「決断」や「実践」や「共同性」ではなく、「伝統」や「美学」に、「無根拠な根拠」を見出す場合も考えられる。この場合は、よりシニシズムが深いわけで、それはまさしく保守主義というべきものだとおもう。