一卵性双生児 びんのなかのてがみ

http://d.hatena.ne.jp/s-saitou/20031101

考えていたのは小説なのでかならずしも科学的に正しい必要はないのだけれど、この指摘は面白かった。世界の神話の多くは神話的な最初の兄妹の結婚によって人類が誕生すると伝えている。また、現代科学でも、ともすればミトコンドリア・イブの探索がジャーナリスティックに話題になったり、人類の最初の母は何人だったかというようなあからさまに不毛な話題が擬似科学の話題になったりする。

こうしたことの根にある神話的思考というのは、ツリーの思考、種族とは枝分かれして生じるものであり、その枝分かれのひとつは特権的な枝でそれが正統=血統であるという思考だろう。もちろん、冷静に考えれば、多様性を枝分かれによってモデル化するのは、父系性という特定の制度と密接に関係した特殊なモデルに過ぎない。

もちろん、原初が一者であったと仮定することから、必然的に人類の始祖を最初の近親婚によって基礎づけざるを得なくなるのだけれど、原初が一であったと仮定する必然性はどこにもない。進化論は、特定の血統の変化に関する描写ではなく、複数の血統が属するグループである遺伝子プールでの分布と強度の変化として考えるべきものだ。(というか血統という概念がツリー的なのだ)原初はつねにすでに多である。

それはそれとして、その内部だけで婚姻してもひとつの種として成り立つ最低限の個体規模ってどのくらいなんだろう。数家族で十分なのかな。

もっとも神話的思考もあなどれなくて、ことなる血を巨人なり天使なり動物なりの血の混入として表象したりするわけだけど、ただ、そういう場合、そういうのはやはり「外」からのものとしてイメージされ禁忌=有徴化されるわけで、本来的に本質がはらむ内在的な複数性、揺らぎと多様性としてはイメージし得ない。

面白いのは、どれだけ知られているかわからないのだけど、遺伝子の大半は使用されていないし、そもそもどういう形質につながるのかもよくわからないものだということで、つまり、わたしはわたしのもつ遺伝子のストックだけでも、ひとならざるものを組み立てるためのセットももっているということだろう。もちろん、それが正常な生殖プロセスで発現するかというとそんなことはないのだけど、個体のもつゲノムそのものがゆらぎをはらんだ遺伝子プールとしての側面を持っているということは重要だと思う。