水について
闇の音もない部屋にベッドに腰掛けて目が慣れるまで身じろぎもせずいるとふと部屋の向かい側に一個の紳士然とした悪魔の幻覚が椅子に腰掛けて自分に断りもせずタバコに火をつけているのに気が付いた。しっかりと見定めようとすると移ろうようではっきりとはしないのだが闇のなかに影を見るだけにとどめればその存在感は少しも現実とかわりがない。悪魔の幻覚の姿はすきのない瀟洒な痩せぎすのわかものの姿でとくに不審な様子は一向見えない。銀のフレームのないメガネがなんとなく圧迫感をもたらして遠慮もなく孤独の部屋に勝手に座っていることに自分はひどい嫌悪感を覚えた。よお、また得意な考えている振りっていう図かい? そういうと陳腐なドストエフスキーの剽窃の癖に自信たっぷりに何事か考えている風に天井を見上げて煙を吐き出した。「やってられるか」そういうと悪魔の幻覚は多少興味をそそられたね、という程度に横目で自分を見て、そのまま何かに聞き入る風で返辞もしない。沈黙に耐えられなくなって自分は、ベッドから立ち上がると壁面に接してたてつけてある本棚に歩み寄って二段目から一冊の本をでたらめに抜き出したが、暗闇のなかでは文字は読めない。ぺらぺらと何ページかめくるとまたその本を棚に戻そうとすると不意に予期しないタイミングで悪魔の幻覚が、「かくてエホバいいたまいけるは……」と意味ありげな 不知周之夢為蝴蝶与、蝴蝶之夢為周与 ところが誰もいない車両のなかには瞳孔の開いた緑の目の人形めいた少女が三人死んでいて、その風景の静けさは奇妙に心穏やかで 同行二人のもう一人が不意に気がくじけてああ、といった途端倒れたまま何かわからないものに引きずられて見えなくなってしまったが自分は振り向きもせずに歩きつづけたが目からは涙が流れているようだった。ああ、というその末期の吐息のなまなましさに自分もくじけそうになりながら自分はひたすらに歩いたのであってしかしその歩み行くさきになにがあるのかというとやはり絶望に似たなにかしか予期しえなかった。そして暗い部屋の隅にほうってあったかたっぽだけの小学生の汚れた上履きから不意にとうとうと黒い水が流れ出してきてそれはとめることができず、ついに床をすべて浸して水位をその冷たさと黒さがあげて、「*******」と窓際にすわっていた兎が言った。
つねに、日常のうちで見えない雨が降りつづけているのを聞いていて、自分は悲傷に耐えないのだ。