blogと編集会議

プリントメディアは過程ではなく成果を発表し、記録するものだった。ここには手書きと活字の対立が存在する。(雑誌、新聞はいちおう棚上げ)最近のウェブ・コンテンツにたいする批判のうち、いくばくかは、ネット上のテキストを目して活字媒体のアナロジーでみるという誤解から生じている。しかし、記録メディアである活字とことなり、電子テキストは記録的側面よりも通信的側面がつよいことは思い出していい。作業フローとして、或る程度作業したら、節目節目で、あとから参照し、それまでの作業がゼロにならないように「冒険の書」にセーブする、そういうストックとして、活字メディアの「刊行」は存在した。しかし、blogにかぎらず、日記的コンテンツを利用して思考や感情をある程度共有することで、生産的な結果を導こうという流れの背景にあるモデルは、活字ではなく手書きのほうであって、ストックではなく、フローのほうである。

blogなり類似の日記的なコンテンツの記事が、活字メディアのストック的な機能を僭称していて、あるいはそういう側面においてあやまって評価されている、というなら、活字メディアにストック的な機能、成果の記録、蓄積としての機能においてそれらのblog的コンテンツは劣っているという批判は正当だろう。しかし、日記的なフローの更新を発表することで、スクラッチ段階からリアクションを期待するという行為の有意義さとは、いわば編集会議の強化、日常化、誰もが常にいるわけではないが、誰かが常にいる会議室なのであって、編集会議は活字のかわりにはなれないが、活字もまた編集会議の代わりにはなれないのだ。その意味で、或る程度までは、オープンソースとの類比は正当なのだとおもう。

逆にいえば、そうした批判にこたえるには、つねに節目ごとにストックとして成果を文書化する、作品化する、そういう営為を示すことで足りるのではないだろうか。

もちろん、日記がそうした共同的作業の媒体としての側面を持たねばならないわけではなくて、その可能性のひとつに過ぎないことはバランスのために認識しておくべきだろう。また、その面から、日記的なテキストの一面だけの不足への批判に答えることもできるのではないか。

追記。いや、もしかしたら、真の問題は締め切りがないという状況で書くということのなかにあるのかもしれない。締め切りのない状況で、どうやって文章に緊張感を与えるか、というような。一応、覚えとして追記