世間

誰でも言っているようなことだけど、というかシニフィアンとかそのへんの用語をつかうあたりではごくふつうの論じ方ですらあるけれども、世間と貨幣は似ている。

世間の圧力も貨幣の価値も誰か別の人が担っている。

百円の硬貨は、受け取る人が、別の場所で、誰かに一定のものと交換してもらえると考えるかぎりにおいて、一定のものと交換してもらえて、百円の価値を持つ。そして、その別の場所で、その別の誰かが百円の硬貨を一定のものと交換に受け取るのも、同じ理由で、以下同様。このその場にいない他者へと無限にずれていく貨幣の構造と世間は同じ理屈で成り立っている。

世間とは当事者にとっては他者のことであるが、その他者というものを実在させているのは当事者であり、この意味での「他者」の意志、権威というのは、それ自体で存在する何かではない。その意味で「亡霊的」なものだ。しかも、そのことは当事者の意図に由来するわけではなく構造的に強いられるものとしてある。百円自体に百円の価値がないのは事実であるが、百円の価値があるかのように扱わないと百円だけ損をし、また百円の価値があるかのように振舞うと百円だけ得をするのも、客観的な事実なのである。

したがって世間も貨幣も単純に心理の問題ではなく、関係の問題なのだ。もっともそれゆえに不在の亡霊としての他者に責任を転嫁してしまえるわけでもなく、やはりいまここで価値や世間はまさにつくられてるので、どこか別の場所で誰かによってつくられているわけではない。とはいえ、そうはいっても、それだからといって、それが関係によって意図に反して強いられたものであるということを忘れてしまうと、場当たり的に目の前の人を非難するか、抽象的な「他者」を代表する何かをみつけて批判することになる。まるで、銀行が価値の源泉だとみなすかのように。それでは多分うまくいかないのだ。

たとえば、戒名みたいに、いっせいにみんなでやめないとやめられないものって、本当に多い。世間の圧力をどうするか、というのは、言い換えると、いかにして、ある種のインフレーションを起こすか、ということなのかもしれない。

だからディオゲネスは「贋金遣い」と呼ばれたりしたのだろうか。