「遠い空で」

ちなみにぼくは件の映画は見ていないし、以下の論旨にその映画がどういうものであるかはぜんぜん関係ない。

http://d.hatena.ne.jp/nagata/20040630#1088543624
http://d.hatena.ne.jp/screammachine/20040629#p2

「知らない場所で人がむごたらしく殺されてもいい」のであれば、なぜ「ひとの生活は破壊してはいけない」のか分からない。「悪人だからという理由で生活を破壊してはいけない」も自明ではないし、「悪人だから生活を破壊していい」ももちろん疑わしい。自明ではないこととして疑うのであれば、どちらも同じことじゃないだろうか。殺人は悪が自明じゃないなら、生活の破壊が悪であるのも自明ではないだろう。私には虚無主義がむしろ徹底していない、と感じられる。

それに、問題はまったく悪人かどうかという胡乱なレッテルなのではない。

ブッシュが大統領であるあいだは、イラクアメリカ国内で、多くの人間の生活の安定や生活自体が破壊される、それは取り返しのつかないことだ、だから今後そういったことを繰り返さない為にブッシュを大統領の座から引き摺りおろそう、というスタンスに僕は疑念を呈しているんです。

ここで分からないのは、なぜ、それなら、引き摺り下ろしていけないのか。たとえば私がまったく己の快楽のためにそうしたいとする。なぜ、かれの生活の安定を破壊していけないのか。論理的にいって、イラクアメリカでの多くの人の生活の安定を破壊していい、と認めている。なぜブッシュの生活は守られるべきなのか。この文章は反転させてもまったく同じ意味を持つのではないか。

二つの生活の安定は等価なのか。多くの人の死とひとりの死は等価であると人は言う。だがそれは間違っている。

ブッシュとたとえばサイイド・某の死は比較できないだろう。同様にブッシュとアハメド・某の死は比較できないだろう。であるならば、比較できないがゆえの等価性が一対一で生じる。わたしがブッシュをたすけるかサイイドを助けるか選択を迫られるとする。わたしがブッシュを助けたとする。これだけなら二つの命は等しい。わたしがブッシュとアハメドから選択を迫られるとする。ブッシュをわたしが選んだとする。まだ偶然の一致だと言い張ることができる。しかし、無数の選択の系列においてつねにわたしがブッシュを選択しつづける理由がどういう理由であるだろうか。しかも、われわれはブッシュは生活や権力しか場に出していないのに、サイイドもアハメドも場に命を出している。ここにありうべからざるほど大きな不均衡はないのか。

もちろん、ブッシュの生活も破壊しないですむなら破壊しないほうがいい。

しかし政治とは両立できない二つの悪のうち一方を選ぶことである。

もちろん、ブッシュをどうこうしてもどうにもならない、という可能性は大いにあるけれども、それは別の話で、もしブッシュをどうこうしたらどうにかなるとしたら、という話。

逆を言えば、個人の目先の幸福のために多くの人が犠牲になることの「何が悪いのか」を理解しないままに、多くの人を犠牲にして得ているからといって幸福を破壊して良いものなのだろうか、と思っているわけです。「多くの人が犠牲になっている」ということ自体が「悪」だというのは明白なことだと思われるでしょう。僕はそれを認めたくない。

ことは「悪」かどうかではない。二つの両立不可能な出来事に決定的に私の生がさらされる。そのとき、どちらを選ぶか、ということでしかない。どちらも悪である場合もあるし、多くの場合、どちらもいくばくかは悪であり、善であるに決まっている。それでも二つは等価ではありえない。いや、そうではなく、どちらかを選ばなければならないという条件において、等価として関係することができないのだ。「多くの人が犠牲になっている」か「一人が犠牲になっている」かを等置できるのは、あくまでも、きわめて観念的な思考の内部だけのはなしだ。なぜなら、「多くの人が犠牲になっている」は、それぞれかけがえない「一人が犠牲になっている」の「加算ではなく並置」だからだ。

僕は僕自身の努力や運で、ブッシュや小泉や同類の政治家たちによって邪魔されない生活を得ることができるのではないかと思っています。これは間違っているでしょうか。

個人的幸福以外の「正義」を相対化するのに、「生活の安定」や個人的幸福がいいことであるという「正義」は相対化されないということ、そのことにこそ問題があるんじゃないか。

すべての正義や倫理が相対化されて最後に残った「正義」が、個人の目先の幸福ならば、しかも、あたかも、先進国民の一人の「個人の目先の幸福」が紛争地帯の多数の「個人の目先の幸福」と並列されてしまうように機能してしまう、そういうものとしての、太宰流にいうなら「家庭の幸福」なら、この半世紀の相対主義とは、なんとむなしいものだったことだろうか。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/282.html

もうひとつは直接的な被害者であることにこだわっているということは、それが、ある種の「資格」になると考えているということなのだろうかと思う。他人の個人の目先の幸福を破壊できるのはその他人に直接、個人の目先の幸福を破壊されたときだけであるというテーゼがそこから読める。これはなるほど、いわゆるわれわれの世紀の自由主義個人主義にとって自明のテーゼであるかのようだけれども、変だ。

これはつまりこういうことだろう。殴られない限り誰かを殴っているやつを止めてはいけないということだ。

変だよ。それは。

厳密に自分が被害だけに限定しているんじゃなくて、親しい人もふくむんだろうと仮定する。すると、

身内が被害をこうむらない限り他人の被害など知ったことか。

ということじゃないのか。

ここで話はニヒリズムを徹底させるなら、という話になる。それなら親しい人を救うのも勝手な話で、そんなことをする資格はない。親しい人だって他人だ。殴っている人はそれが楽しくてやってるんだろう。殴られている人が親しい人だからってそれをやめさせるのは、「正義」をふりかざすうさんくさい振る舞いだ。

ゆえに、仮にそうであるならば、殴られない限り、いっさい、殴るのをとめるべきではない。

それはいい。

しかしその立場に徹底するなら、他人が殴るのを止めるのも、殴るのをとめてはいけないのと同じ理由で、とめてはいけない。そうするのが楽しいのかもしれないんだから、それをやめさせるのは胡乱な「正義」だ。なぜ殴るのをとめるのはいけなくて、殴るのをとめるのをとめるのはいいのか。

それに遠い空は遠くではない。遠い空を遠いままにしておける壁などどこにもないのだ。