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追記。:しかし結局、問題となっている(似非)相対主義者というのの主張というのが、具体像が見えにくいので、それがいちばんかみ合いにくい理由のような気がする。社会科学の分野への自然科学的方法の導入という話なら、社会構築主義の問題とそれへの批判という形で明確なのだけど、それは、科学論的な、自然科学の根拠に関する議論とは別の問題だし。また、ぼくはぼくで、現代の科学論的主張の多様性を、ひとつの観点からかなり乱暴にまとめてしまっている。
http://d.hatena.ne.jp/svnseeds/20040705#p1
そういえば先々々日の、似非相対主義者は規範的主張を科学に求めているように見える、という件。要は「科学はfactは出すがapplicationは出さない」という点が「科学には限界がある」=「科学は万能ではない」=「占星術と科学は同等だ!(笑)」という主張の根っこにあるように見えます、ってことです。というかそうでも考えないと彼らがわざわざ色々主張する意味が良くわからない、と。
似非相対主義者というものでどのへんをさしているのかわからないので、あれなんですが、基本的に、科学の有効性を疑うような主張を、ほとんどの相対主義はしているわけではないんですよ。そこにどうも誤解があるような気がする。というかむしろ、科学は規範的主張をするものではない、そして、そのことは何ら問題ではない、ということは、現代思想において、むしろ強調されてきたことでさえあるわけです。
科学は有効です。で、科学的に有効であるとはどういうことだろう。と、考えているわけで、科学が有効であることに疑義を突きつけているわけではないんですよ。
相対主義的な傾向を帯びた現代の科学論は、けっして科学の有効性を批判していません。また、規範的主張をするべきだともいっていません。むしろ、現代の科学論の主題のひとつは、科学には、規範的主張が、無意識に織り込まれてしまう場合があるのではないか、ということでした。われわれは、完全に規範的主張を無意識に織り込むことなく記述的主張ができるだろうか。知識は本質的に方法論によってあらかじめ制約を受けるのではないか。それは、簡単に片付く問題ではありません。
科学の信頼性を落とすような、あるいは、その有効性に疑義を抱かしめるような主張は、科学論や科学哲学、現代思想の、どれも主張していないことです。
で、もうひとつ大きな誤解という気がするのは、科学論の「科学批判」というような言説が、なにか科学は間違っていたとか、科学に注文をつけるような、そういう性質のものとして受け取られているような気がする、ということです。ぜんぜんそういう話じゃないんですよ。そうではなくて、科学的事実を知るということは、世界のどういう側面を知るということなのか。そして、科学的に知るということは、対象と哲学的、倫理的に見てどういう性質の関係を取り結ぶということなのか、そういうことを、哲学者が、ほかの哲学者に向けて批判する、そういう話なんですよ。
で、そういう文脈で、科学性には工学的な「働きかけ」と操作の論理(といって強すぎるのであれば世界を受動的客体として操作対象としてモデル化する、そういう観点からの世界把握であるということ)が組み込まれている、というような話が出てくるわけで、そのこと自体は、科学的であるとはどういうことか、ということを考える上で出てくる一つの説なわけです。
つまり、哲学だって、倫理学だって、やはり規範的主張はしないわけです。あくまでも、科学的であるということは、どういうことか、科学的知識とは、いったいどういう性格の知識なのか、科学的に完璧に正しい知識を仮に想定したとして、それは世界のどういう側面を語っているとみなすべきだろうか。そういう問いに答えようとしているに過ぎない。別に「目的」とかがあるわけではないですよ。
じゃあ、科学論の伝統の中で、広い意味で相対主義的な考えが批判しているのは、科学ではないとしたら、何なのか、といえば、話は簡単で、科学について、より相対主義的ではない考え方をする別の哲学者、科学論の研究者ですよ。あるいは、科学とは哲学的にはどういうものかという一般的な考え方、です。
だいいちその科学者が、こういう科学論的な、哲学的な認識で、まちがっていようが、ただしかろうが、その科学者が正しい科学的知識を発見できるかどうかには、ぜんぜん関係ないわけです。その意味で、これは、科学の内容に関する問題ではない。そもそも科学的知識を得るのにもっといい方法があるなどと、科学者でもないものがいえるはずがない。あたりまえです。
もちろん、科学的知識の哲学的ステータスに科学者だって関心を持つことはあるわけで、(それが「ヨーロッパ諸学の危機」というような形で深刻に問題化されることもあるわけですが)その意味で、量子力学に限らず「解釈問題」はあるわけですが、データの形式化と未知部分の予測に関して差異をもたらさないレベルでの解釈の差異は、やはり科学内部の問題ではないように思えます。
科学と占星術が等しい、というような言い方は、文化相対主義的な文脈で出てくることが想定できるものいいですが、これは、ある点では正しい。つまり、その主張する真実が、価値をもち有効である場をそれぞれ想定でき、かつそのそれぞれの場の価値的優劣を一概に決定できない、という意味で。しかし、これは、科学的知識が、事実を予測し、把握し、コントロールし、データを合理的に整理し、といった、そもそも科学が目的としている諸点において、占星術に等しいという意味では全然ない。単に、占星術は別の目的をもっており、その別の目的においては、それなりに価値をもっており、そして科学の目的と、占星術の目的を比較することは、一般論としては意味がない、というようなことです。
簡単にいってしまえば、ひとが科学と占星術は等しいといっていたとしても、多くの場合、事実関係を把握する能力において占星術が科学に比肩するなどといっているわけではないわけです。もしそういったとしたら、そもそもそのひとは占星術を科学の一種とみなしているわけで、科学としての「科学」と科学としての「占星術」を比較することになるわけで、そんなもの、定義上、科学が優越しているにきまっています。ちなみにこの種の間違いはオカルトの人がよくします。
逆にいえば、科学の目的を達成する手段としては、占星術は、もちろん、問題にならない。駄目に決まっている。まあ、占星術の目的と科学の目的とを比べれば、科学の目的とすることのほうがはるかに生の中で普遍性を持ってはいるわけですが。
端的に日本的事情として、本来、人脈的にも、思想的文脈的にも全然つながりのない、むしろはっきりとした対立関係にある、ヨーロッパの相対主義的な現代思想と、アメリカ西海岸的なニューエイジ、ニューサイエンスとが、ニューアカとか、そういう日本への輸入において、近しいもののようになってしまったということもあるんじゃないかと思います。
というわけで、反論というよりも、似非相対主義者というとき、少なくとも哲学や思想の世界でも、そういう極端な、非現実的な相対主義者は、少しも主流ではないのだということ、にもかかわらず、まっとうな哲学的な相対主義的議論が、そういう似非相対主義者と、いっしょくたに非難されがちだということは、想起してほしいなあ、と、思います。