かってに改蔵、終了

いい終わり方だった。普通、なんてご都合主義的な、と思うところだけども、振り返ってみれば、それで納得してしまうというか、あれもこれもそういう文脈での伏線になっているよなあ、というか、意図的伏線というよりも、こういう終わりを説得的にする性質というものがある、というか、非常に、批評的な終わり方というか、そんな感じがする。つまり、ひっくり返す、というのではなく、物語の別のレイヤーを、それまでの物語を否定するというよりも重層化する形で提示しているというか、そういう意味で批評的で、そして、大事なところで直球というのは好ましいというか、正しいという感じがする。つまり、こういう終わりを提示することで、むしろ今までの読みの経験は豊かになっている、しかもそれは、けっしてそれまでを否定するということではない、その意味で、単なるデウスエクスマキナとは全然違う。そこで残る問題は、このような終わりによって、想像力というか、世界は閉じられたのか、開かれたのか。外部に付いて語ることは外部を内部に像として閉じ込めることなのか、それとも外部への空隙を刻み込むことなのか。そして、この終わりでいちばん納得するのは、羽美ちゃんが、あんな描かれ方なのに、あくまでもヒロインとして提示されつづけた理由。

こういう話だからまだひっくり返しがあるかもしれないと思うのは自然だけれども、それはどちらでもいいので、それならそれでその時点でそのバージョンをそれとして楽しめばいい。この「ストレートな」いい話っぽさというのに感動するのを警戒する必要はない。そうぼくはおもう。

あと、これがエヴァと違うと思う点はいくつかあって、同一視するのは少し短絡的だと思う。むしろドラえもんの最終回伝説のほうに近い。「おめでとう」はすでにいやされているひとに対して向けられているので、エヴァのように「おめでとう」ということでいやすようなうさんくさいことが行われているわけではない。つまり全般的に、超越的な何かを持ち出していない。また、自意識の解決が主題になっていない。結局、下っ端はまだ出られてないわけだし。エヴァ的なものなら下っ端がクローズアップされる筈。主題になっているのは「物語る行為」だと思う。二人という対が主題になっているのも、そうした神話的な「始まり」のイメージで、むしろ非常に古典的なイニシエーションだと思う。何より、これは「誰かの夢だった」という独我論ではなく、「彼らの夢だった」なので、この違いは大きい。登場人物たちは「実は存在しなかった」のではなく「誰もが別の面を持っていた」ので、それはむしろ想像力を却下するのではなく刺激する。

もちろん、危うさみたいなものを感じないわけではないし、最後の最後の部分が感動系のエロゲっぽいというのはそう思うけども、それは別に欠点ではないだろうと。なんというか、たしかに危うさを感じるのはわかるけれども、仔細に見れば、お説教や神秘的で超越的ななにかや自意識や妙な前向きさ、変な全肯定といったことが主題になっていない、というところはもう少し着目されていいんじゃないか。思うに、作者は「とらうま町」の外部を示すことで終わらせたかったので、裏切られた、という感じを受けるような意味で「とらうま町」を否定したわけではない。

参考
http://d.hatena.ne.jp/nisemono_san/20040722#p1
これも納得。
http://d.hatena.ne.jp/S_Mizuki/20040722

ついでに追記
ネタかマジかという二分法は意味がないと思う。というか、別にこの作品にかぎらず、ネタかマジかという視点は、非常に生産性が低い。

あと、夢オチだから、というのはそれこそ「脊髄反射」だと思う。カテゴリーに当てはめてるだけ。厳密には夢オチじゃないし。