属性への愛 固有名

私が私であるのは、私が今このような諸属性を持っていることと不可分だ。私が別様であったら、それは私ではない。あるいは、それはなお私であるだろうけれども、その私への愛と、この私への愛は、やはり別様の愛であるべきだ。

つまり、簡単な話で、ここで属性という言葉があいまいなので、属性という言葉を私が帯びている比較可能な一般性から測ったパラメータとして考えるなら、それゆえに愛することは、結局のところシステムにおける特定の「位置」を愛することに等しく、その位置をしめる誰かなら私でなくてもいいことになるだろう。

しかし、そこで単独性を持ち出すことに注意深くあるべきなのは、私のありようこそが私なのである、ということで、もしそこで、空虚な観念的同一性をもって、単独性としておいてしまうと、私がどのようであっても私であることになる。しかし、そのときの同一性は、まったく空虚なもので、逆説的なことだけども、誰でもいいじゃないか、ということになる。「愛の呼びかけ」としての指向対象としての私を確定するのは属性記述の集積ではないけれども、かといって、私の記述可能な具体性と完全に切れてしまった、無内容で空虚な「私性」というようなものを観念してしまうのは罠である。(固有性とは、システムにあいた否定性、「穴」では、ない!)私のありようというのは、属性として記述可能な私の具体性のほかにはなにもないのであって、具体性の外部に、私を私たらしめる形而上学的な何か、があるわけではない。

いってしまえば、愛の対象である私らしさとは変動しつつある属性記述可能であるが記述し尽くすことはできない具体的な私の現れのことなのであって、属性記述不可能な、現われの外部にある形而上学的な、不変の、自己同一的な、何かなのではない。欠如としての固有性観念に対して、生成としての固有性を対置すること。私が別様であるときも同様の不変の愛を向けることには、なにか、奇妙な「不正」が、ないだろうか。

魂とは語りえない不在ではなく語り尽くせない現れなのだ。

別様に言えば、私の固有性とは、私の性質から一般的な共有の属性を除外していって残った空虚な枠組みのようなものではない。普通、観念的単独性はそのようにして取り出されるけれども。そうではなく、私の固有性とは、私が現にそうであるすべての述語を無限に付け加えていく、その過剰な加算の動き、無限数列こそが固有性なのである。この動きを、意志と呼んでもいいし、息遣いと呼んでもいいし、痕跡と呼んでもいい。把握しうるのは、この動きとしての固有性の痕跡だけだから。

故に、愛とは、速度であり、動揺であり、生成なのだ。

もっとも静謐で、深く、穏やかな愛情のもっている、軽捷でエーテル的な、天使的「速さ」という仮説には無理があるだろうか?