あー、なんか調子出ないな・・・・・・

 ぼくが現在、いまひとつ書くことに集中できないでいるのはぼくがいま未来をあまり信じていないからかもしれない。書くことは未だ来たらざる時と可能へ呼びかけることで、そこに何かの出来事を待ち設けることだ。それが何か知ることなくしかも信じて待ち設ける、ある種の敬虔な静けさがぼくにはいま欠けているのだ。そしてこのぼくの言葉の悪文ぶり、紆余曲折とくどさも、生来のといってもいいほどの思考それ自体の紆余曲折と、単なる技術的未熟によるものが大きいとはいえ、やはりそうした要因、待つことへの持ち応えられなさ、に起因しているとも、ぼくには思える。

 いや、くだくだしいことはいうまい。ぼくにはただ勇気が必要だ、というだけのはなしだ。

 貞潔な勇気が。

 かつて、それはどういう折だったか、もはや苦痛なしには思い出せない人と場所で、とはいえそれはまったく大げさな話ではないので、ひとえにぼくが過ぎ去ったものをあまりにはやく手放してしまい、記憶と現在の落差に引き裂かれるというだけの理由で苦痛であるにすぎないのだけれども、ぼくは、何者か、他なるもの、未だ現れないものが、まさにたち現れようとしているのだ、という、予感ではない、信頼でもない、むしろ、肌触りに出会った。

 ああ、こういうことを書いてどうしようというのか、どうもよくわからないのは私もご同様なのだ。

 追憶とは刃の名に他ならない。

 緑の森の入り口にはおそらく錆びたバイクの残骸と古新聞と安雑誌の濡れた匂い、立ち入り禁止の立て札に砂利とおろかさと中学生の夢想の残酷な粕が漂う。夜明けの不快な頭痛のように。

 「教養とは修辞学、書くことと読むことの技術である。工学的なテクネーの知に欠けているのはまさしく、言葉という骨がらみになったひとの経験のありようとの付き合い方なのだ」

 レトリック、というと、ぼくは絶望についての有り触れた風景を思い出してしまう。

 声に出すほどではないけれどもつねにつきまとう関節のたえまない僅かな苦痛。身動きするたびに自らの存在を主張するくせに、決して意識に上るほどには高まらないために看過してしまうこの傷み。まるで非常に長い期間を欠けて私の精神が腐敗しているのだ、それゆえに果実が傷むようにさまざまな部分がこわれていくのだ、と告げるように。

 幻影についてぼくは触れたいのだ。

 allusion (仄めかし)と illusion(幻) という、悪い洒落が、秋に生き残った蚊のように意識に付きまとう。ひとのいだく希願がすべてただの修辞に由来するものでしかなく、奥の院、カーテンの向こう側に何もないとしたら。

 いや・・・・・・あなたはきっという。そんなことはいまや子供でも知っている。多寡のしれた懐疑とニヒリズムには違いない。そして、こういうに違いない。幻を見ることが有利なら、信じているように振舞えと。いや、あなたがもっと熱情家なら、何もないさ、だがうそを見抜くさかしさだけが真実だ、偽善者たちのうそを壊してまわれ、とでもいうのかもしれない。すべて、文字に宿り付き纏う、幽霊たちのやむことのない平板な声だ。

 だがそんな退屈な音楽を聴きたいわけじゃなかったんだ。

 言葉はじつにやばいウイルスだとジャンキーは言う脳内妄想に宇宙人の命令と権威的な声陰謀と計画とそして監視する目は、見ることをやめない。

 そんなことはどうでもいい、と言い切ってしまえればいいのだが、軌道上で人類を監視する宇宙人の陰謀を信じることにも、ブラックホールから電波で伝達され、ウイルスで蔓延する狂気を信じることにもある種の利点はあるわけで、いや、そうではなく、つまり、読むことは、ラジオに聴き入る真剣さであれ、決して、意味を受け取ることでもなく、意味を宙吊りにさせることですらさらさらなく、ああ、またそこに戻ってくるのか、待つことなのだ。

 ヴェーユみたいなこと書いてるな。

 と、不意に、暗転。
 夜がやってくる。

 うずくまっている巨大な蜘蛛とおぼしきものの注視、しかしそいつはひどく静かで、身動きひとつしない。あたりはくらく、ぬばたまの闇に満ちて、清潔だ。いや、それは血塗られているという意味でも清潔なのだ。蜘蛛なのか、蛸なのか、その存在の静かさはぼくに奇妙な安心感を与える。何かをそいつは食べているのかもしれないのだが。

 記憶とは刃の名に他ならないが、しかし他なるものこそが、記憶の背後にかすかに聴き取られる音楽の流れてくる場所の名なのだ。

 ああ、わかっている。それすらもまたよくある小唄さ。

 ぼくが知っている唯一の音楽の名は、ただ心臓の鼓動、と人々には呼ばれている。

 場所を持たない夢は、山頂にできた湖から流れ出して、坑道の底に流れくだり、そこを過ぎ去って、汚わいに満ちた都会のどぶを通り過ぎ、どこか誰とも知れない貧しいチンピラのトイレに逆流してゆっくりと腐る。

 バビロンの下水道でなんども壁に頭を打ちつけている男のイメージが奇妙なはなれがたさと、やがてゆっくりと不意の訪問者のようにたち現れる感謝の念とともに、ぼくにうつくしいものの先駆けのデッサンを与えた。

 ぼくは永訣の前に何度も別れのレッスンを繰り返さなければならない。そしておそらくはけっして完遂されないそのレッスンのたびに、少しはぼくはよりよく別れを演じることができるだろう。別れは決して予期されえないのだし、筋書き通りにわかれることができると多くの人が信じ、そう信じることで何事か、多分自分自身と世界の真実を支配しようとするのだけど、そんなことは無理にきまっている。別れにはいつも予想できないファクターが入ってくる。すべては裏切られ、どうしたって取り乱し、始末をつけるのはいつだって縁もゆかりもない他人だ。

 それでいいような気も、ぼくはするんだ。