「人間を書く・描く」

http://d.hatena.ne.jp/DocSeri/20041014#1097741326

えーたいしたことではないのですが、純文学というか文学の世界では、「人間を書く」ことが文学であるという概念は十九世紀までの話です。十九世紀にいわゆる近代市民小説というか、古典的な近代小説のフォーマットが完成します。で、二十世紀初頭にプルーストとかまあいろいろ前衛があらわれたり、ドストエフスキーとか、まあいろいろ二十世紀小説というやつが出てくるわけです。なので、「人間を書くことが(純)文学である」という概念は、純文学の外から、つまり、ジャンル小説から言われる、純文学に対するイメージなんですね。あ、それと、いわゆる商業的ベストセラー、これはたしかに「人間を書く」コンセプトが通用することがあるんですが、あれは、非常に雑に言ってしまえば、大衆小説というのは、十九世紀のフォーマットでかかれているものだからです。デュマとかディケンズを読むとなおさらそういう感は強いです。

思うに、なので、「人間を書く」というのは、ジャンル小説のなかの異端についてあてはまることで、純文学には当てはまらないんですよ。で、ジャンル小説の中の異端にこれがあてはまるというのは、非常に逆説的なことですけど、それが、やはりそのジャンルの内部の小説だからです。つまり、ジャンル小説が、十九世紀の近代文学の要素をとりいれることで成立しているのが、そういう異端の小説なわけです。そして、それが、やはりそのジャンルの小説だというのは、その小説の、十九世紀の純文学から借りた部分だけを取り出したら、古色蒼然、あまり読めたものではないわけで、(いや、たまにベストセラーにはそういうのがありますが)、実は、そういう小説が、じゃあなぜ現代的な作品かというと、むしろ、やっぱり、その小説の中のジャンル小説としての要素にあるからです。

で、ここで、「人間を書く・描く」が日本で特にいわれるのには、日本近代文学が、「世態風俗人情」を描くという定義で出発してしまったという事情もあって、いまでもリアリズムというか現代風俗をリアルに書くというのが重視されますし。

それで、いやだって、どんな小説だって人間を書くから感動的なんじゃないか、人間を書かないってどういうこと、あの難解な前衛ってやつ? というのがあるとおもうんですが、そういうことではなく。

たしかに、広い意味で、人間精神と交渉を持った出来事を書く、ということはいえます。しかしこれは、事実上何を書いてもそうなるので、あまり意味がある定義ではない。では、「人間を書く」というのは、人間を対象として描き出し、髣髴とさせ、そこで何かの真実を描き出す、ということでしょうか。さて、このコンセプトが二十世紀初頭に放棄された、というのはどういうことかというと、「人間」という概念が問題なんです。ひとつのまとまりをもった独立した人格、社会的な分割できない単位としての個人、犯すことのできない内面、自由意志、あるいは、ひとが人間と聞いて抱くもろもろの既成のイメージ、そういう制約が、「人間を描く・書く」というコンセプトに不可避的に伴う統一、まとまりにはともないます。あるいは別の言い方をすると、人間を描くことから、人間の概念を解体してそれに制約されず、「関係」一般を描くことへとスライドした、というふうに。非人間的な「存在」を描く、というのはたとえば重要なコンセプトだったりしますし。

このへんは日本では横光利一とか、あのへんの昭和十年代くらいの時代にはっきりと自覚されてきます。

ですから、いまでも純文学はある意味では人間を描いているのですが、それはSFやミステリーもまたそうしているというような意味で、そうしているにすぎないわけです。ひとはむしろ鉱物を書き、動物を書くべきなのかもしれません。そうすることでこそ、人間を描くことができる。しかし、やはり現代文学はむしろ、なぜ人間なんか描かなきゃいけないのか、と、問うほうが普通だと思います。