差延

http://d.hatena.ne.jp/wills/20041016#p4

「ラ・ディフェランス」読もうとしたんだけど挫折したんだよなあ。「差延」の記述をちゃんとしたいんで気をつけてはいるんだけどよくわからない。

あるものではないものを考えようとする。すると、それは考えられるものとして、ある、ことになってしまう。考えの対象は、ある。このへんはギリシア哲学で誰だったか、デモクリトス以前に主題になってたような。運動の否定とか。思いっきり、ハイデッガーな話も読んだほうがいいんだろうなあ。で、このアポリアについて、デリダというかハイデッガーというか、痕跡ということを持ち出す。

ないものとあるものは、どちらも、それとして考えの対象として、考えのなかに立ち現れることができるものであるから、そのかぎりで、あるもの、だ。この二分法は、つまり、考えの志向対象として現れるものの内部での対立でしかなく、その外部を排除している。そこで、なにかがないということは、どういうことかを考える。すると、何かがないということは、ないということを、そのものとして対象として、あたかも「ある」が「あるもの」を経験することによって知られるように知られるのではない。

あるものがあることは、あるものが経験されることによって知られるが、ないものがないことは、ないものが経験されることによって知られるのではなく、ないものの痕跡が経験されることによって知られる。私の存在は私を経験することによって知られるが、私の不在は、私を経験することによって知られるのではなく、私の痕跡によって知られる。そして、痕跡は、ないもの、そのものとは別のものだ。私の痕跡は私ではない。

痕跡もまた、痕跡を通じてないものが知られるということは、それ自身は経験されるものであり、あるものであるといわれるだろうが、しかし、それは、もはや、痕跡としてあるのではなく、それ自身があるということを示すものとして現れるのであって、痕跡としての限りでは、「ある」のではない。痕跡は、もはや、それ自身の存在を示すものとして経験されるときは、もはや痕跡ではない。

不在、痕跡は、そのかぎりで、あるとないの二分法を逸脱しうる。

うーん、とかいいつつこのパラフレーズが適切かとか、屁理屈じゃないのかという気が。安直に書いてはいけないなあ。

しかし、このへんはまあ、わかるといえばわかる。

よくわからないのは、差延が、差異の差異とか、差延によって、諸差異が産出される、というあたり。

追記

なんか気になっていたのは、ないということ、と、何かがないということ、がかなり雑に同一視されてしまったからかも。