differre/defferre

http://thought.ne.jp/luhmann/asl/doso/01022.html
ルーマンはともかく、つまみ食い的に面白そうなので。

http://dic.yahoo.co.jp/bin/dsearch?p=defer&stype=1&dtype=1
http://dic.yahoo.co.jp/bin/dsearch?p=differ&stype=1&dtype=1

仏蘭西語のdifferには、英語の differ 異なると defer 延期する、猶予する、延ばす、待つ、の二つの意味がある。でもともとは、「引き離す」という意味のラテン語だったらしい。

あーやっぱり読まないといけないか、でも読んでもわからないんだよなあ。

  1. 記号は他の記号と否定的に異なることによって記号になる、記号である。
  2. 記号が他と異なるということは、その他の記号との間に隔てが作られ、分節されるということである。
  3. 記号が他と異なるということは、その他の記号との関わりを延期し、猶予したうえでかかわるということである。

で、いいのかなあ、うーん、延期化の契機がよくわからん。

具体的に考えてみよう。といってもやはり脱線のような気もするけど。

右は左ではない。ここでの差異を見る。右と左との間に、ここには差異が置かれている。右は左と異なっている。右が左と異なるとき、右と左の間には、隔てが置かれる。ああ、なるほど、そういう意味か。弁別不能ゾーンが発生するが、それが或る種の排除によって、不可視化され、区別を可能にする。右と左が分かれるとき、異なるとき、この異なりの働きは、隔てを押し開く。そして、隔てを押し開くことによって、右と左を、「独立項」に変える。つまり、ここでは、切断と切り裂きがある。傷がある。しかし、違う二つのものは無関係ではないのだから、ボーダーラインは、二つのボーダーの面を何らかの形でつないでいるのでなければいけない。しかし、それは、交通を許すのではいけない。だから、これは遮断でもある。

空間は、隔てによってつくられ、隔ては遮断と接合を必要とする。離接というやつか。

次だ。えーと、右は左と異なる。ここがわからない。媒介性の話らしいのだが。転回とか回付とか送付とか。時間性。一時猶予。瞬間。せつな。右であるということは左であるということを留保することだ、というような意味? 右であることと左であることの区別は、パース的な参照項に準拠して、経て、回り道してはじめて可能である、ということか。すると、どうなる? そのことから時間性が構成されるというのは? 参照項という言い方は是認されるのか?

右であるということと左であることは異なるというとき、まず、真中を経由しなければならない。そして、真中を経由するという、ひとつの手順が、ひとつの遅れを、不可避的な猶予を構成する。しかし、ここはもうちょっと分析というか説明が僕に対して必要な気がする。

すでに右と左は異なるというとき、それはひとつの記号体系において独立項として単なる差異ではなく対立を構成している二つの語を私は考えている。それが手続き上、癌なのかなあ。

右と左は異なる。もっと具体的に考えよう。右と左は、どのように、異なるのか。なるほど、この「どのように」異なるのか、という問いは、たしかに、ひとつの経由地点、寄港地を導入するように見える。私と私でないものというだけの内容なき差異は、二つの項を構成しない、ように見える、いちおう。この純粋に否定的な差異は、ひとつの私という独立項を規定するだけだ。しかしまて。この場合でさえ、すでに「私」という語が、何か意味を持ったもの、内容をもつものとして理解されている限りで、それはすでに、他の諸記号と関係を有している。したがって、この場合でも、純粋に否定的な差異というものはない。ということは、つねに、その記号が、記号である限りで、その他の記号との差異が、どのような差異であるかが確定されなければならない。そして、この「どのような差異であるか」、ということは、ではどのように確定されうるのか。

右と左は異なる。その異なりはどのような異なりであるか、と問う。これは困難な問いだ。さて、このような意味で媒介性は無限に介在するといってのけてしまうことは可能だけれども、それは全然具体的ではないので、先回りはしないことにしよう。

したがって、確定されることをいま、待っているのは、差異の差異である。つまり、右と左の差異と、西と東の差異の、その二つの差異の間の差異が、確定されなければならない。そうでなければ、右と左が、どのように異なるのか、わからない。さて、困った。ここで観念的に思弁でいけば、当然、つぎにこの差異を確定するためには、右と左の差異と、西と東の差異の間の差異と、別の何かと何かの間の差異という、二つの差異の間の差異を確定できなければならないはず。きりがない。

しかしわれわれは、ともかく普通は「どのように違うのか」という問いに返答可能である。ではどうやって返答しているのか。

ここで、ひとつの答え方は、どこかで強制的に、説明不要で、その上それ以上悪無限に陥ることなく差異を確定可能な、いわば、それ自身が、他との差異を媒介にせず、自己を自分で説明する差異があるはずである、ということになるだろう。

追記。中心?)

形而上学、ということなんだろうか、それが。

それはともかく、さて、どうしたものか。

私たちは、ひとつには普通、どのように違うのか、ということを、分割によって解決する。つまり、分析して、下位の構成要素の分配、混合の配置の問題として、差異を説明する。このような仕方で、媒介性は、回避されるかのようである。

ここで、デモクリトスのエレア派のアポリアの解決の仕方を思い出す。

空間化による解決というのは、具体的には何をしているということなんだろうか。

さて、しかし、分割は、まさしく、分析こそが、第三者を必要とするように見える。

右と左が異なるというとき、それが、相対的方向に関する差異であると応えてみる。なになにに関する差異という。差異の属する分野という概念は何を意味しているのか。政治的差異、概念的差異、美学的差異。政治的差異と美学的差異の間の差異。

すこし、何だか訳がわからなくなってきた。

互いに異なりあう諸差異は、その諸差異のなかのそれぞれの差異が、その差異において異なる二つのものを混じることがないように隔てることと、その二つのものを他の諸差異に結びつけることが可能な限りで、異なりあうことができる、ということ?

うなされそうだ……

しかしこのへんでみるかぎりでは、パースの三項関係と、関係ありそうな気もするなあ。

で、探してみた。

しかしデリダのパース論から分かるように、パース自身のインデックス議論は、それほど明快に二項対立を設定しているわけではない。パースにおいて、現実と表象、世界と記号、インデックスとシンボルは互いに他者として内在する/とり憑く/住まう関係にある。もっと言うならば、現実もある種の記号的過程/表象過程であり、写真はいわば記号の記号化なのである。すなわち、現実も写真も、力動的な記号過程(痕跡化)として、不在や空白を抱え込み、間隔化や二重化という作用を及ぼしているのである。

http://www.think-photo.net/review_translation/maekawa/06_batchen.html

また関係のありそうな個所が。

http://thought.ne.jp/luhmann/asl/doso/01.html

パースは解釈項をひとつの項として確定した対象としておいたけれども、デリダは、あくまでも、迂回という動きがあるのであって、その迂回の動きから事後的に解釈項が見出される、とでもいうことをいっているのだろうか。その場合、解釈項をあらかじめ項目としておかない利点というのはどのへんなのだろう。

意識と無意識であれ、言語的記号と非言語的記号であれ、シニフィアンとシ
ニフィエであれ、そのような二分法から出発することは、すでに自己言及性
(自己差異性)が排除された「体系」を前提している。その点において、
チャールズ・パースも例外ではない。ただ、彼が、記号の意味とは、それに
よってその記号が翻訳されうる別の記号のことだといっていることは注目に値
する。つまり、ある記号の意味は、それ自体別の記号であらわされ、さらにそ
の記号の意味も別の記号であらわされる……。
 この無限後退的な連鎖においては、記号・シニフィアンから分離して存する
意味・シニフィエを実体的に考えることができないはずである。記号の意味は
一瞬あらわれるが、ただちに別の記号の下に消えて行く。ここでもし記号がそ
れぞれの意味と結合したり、あるいは同じことだが、記号から分離して意味が
存在するとすれば、この無限後退的な連鎖がどこかで閉じられているのでなけ
ればならない。(柄谷「言語・数・貨幣」)

http://www.geocities.jp/na92tsu/takino/tekus.html

このへんとか?

しかし……なにか高尚な議論がどうこうじゃなくて、単に、 differance の辞書的なというか、文字通りの普通の意味が知りたいだけなんだけど、全然わからない。差延という言葉を使っている文章はたくさんあるんだけど、それを読むことによってその用法はなんとなくわかるんだけど、ぼくは言葉の用法を知りたいんじゃなくて、意味を知りたいので、あまり、役には立たないのだった。