memo クワイン
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20041120
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0411c.html#p041123a
http://www.sakura.cc.tsukuba.ac.jp/~khashimo/Quine_on_Analyticity.html
http://www.geocities.jp/enten_eller1120/post2/pragmatism.html
http://www.shortcutweb.com/archive/clm/ni/ni4.html
ルーマンの愛と真理と権力をコミュニケーション・メディアとしてとらえ、それらの間の混線が、メディアとしての機能から禁じられているという観点。
金が敵の世の中。
自由民権・尾崎紅葉・二葉亭・金色夜叉・処女の純潔・立身出世。
規約により意味を変更することはあたかも可能であるかのようであるが、しかし、意味を規約によって変更しつつ、その変化の影響をローカル・スコープにとどめるということは不可能ではないのか。なぜなら、定義に含まれる語も、議論にふくまれる他の語もすべて、その語の意味から独立ではないからだ。
あるいは、規約により意味が変更される前の語とあとの語が、語として同一であるということは意味をなすか。もし、語として同一でないのなら、そもそも、われわれは、なんについて話をしていたのか。
語は、特殊な公理系内部の語でない限り、定義によって、定義の効果として、定義を特権的参照項目として、定義を意味作用の源泉として、原因として、意味を持つ、意味するわけではない。そのような定義によって意味を持っているわけではない語について、この文はその語の定義である、とはどういうことか。そしてもし、定義に依存して意味するわけではない語について、その語のただしい定義を確定することが不可能、あるいは無意味であるならば、分析的な真理は定義によってただしいということだ、という定義は無効になる。
定義を持ち出さずに論じた場合、意味のこの規約は言語ゲームにおいて、まさしくいまここの対話において、更新され形成されつつあるルールである、とみなさなければならない。つまり、愛が買えるものであるかどうかは、まさしく対話のさなかでゆらぎつつ決定過程にある。
と、理解すると、社会構築主義的な相対論の問題が生じる。規約は恣意的なのか。規約は恣意的だけれども、整合的でなければならないから、規約は恣意的だが、規約の変更は恣意的ではない。なぜなら、整合性が維持されなければならないから、というのが暫定的に提出できる。
しかしここまでは規約一般の話で、金の話でも愛の話でもない。
貨幣交換のメディアと愛情のメディアは間接的には、つまりモノを通じて相互干渉可能だが、直接的には干渉可能ではない、といちおうはいえる。つまり、金で世界の状態を物的手段で変更することは可能。つぎに、その変化した世界状態が、愛情を喚起することも可能。しかし、世界状態という中間は中立的なので、この関係は蓋然的だが必然的ではない。
しかし、金持ちであるがゆえに愛する。あるいは愛するがゆえに金を得る。ということがあれば別だがこれらは禁じられている。というか禁じられているというより、異常で例外的。
ここで愛するのは文字通りの意味。金持ちを打算的に好むとか、愛するふりをするということではない。金銭が理由で純粋に愛情を抱くということ。逆もそう。愛情を獲得するための手段として金銭を利用するという意味ではなく、愛情を金銭を、純粋に経済的に交換するということ。
金で買うということは、オーダーするということである。オーダーするということは、何をオーダーするか知っているということである。
こういうことだ。愛が金で買えるという考えは、愛とは何であるか知っている、と考えている、ということが前提になる。
よって、金で買うということは、不安のあらわれなのだ。何が交換物としてかえってくるか、金銭的交換ならば分かる。その意味で、これは冷酷な脆弱さのあらわれでもある。しかしこれは合理性一般にいえることではあるかもしれない。
贈与とギャンブル。
愛を買うよりも、愛に金を賭けるほうがいいのではないか、というようなこと。
あるいは、問題は、ひたすらにこの文章のはじめから、確実性という問題をめぐっていたのかもしれない。確実に意味すること。真理というメディア。