なんでもかんでも権力だ、という件について

http://d.hatena.ne.jp/pavlusha/20050209#p3
ちょっと物まね。それはともかく、フーコーの議論についての(多分)ルーマンの、でもそれだと分析が拡散して意味のあることいえなくなるよね、という批判のほうがよくわかるんですよね。なんでもかんでも権力の現れであるという議論が意味を持つためには、しかし原理的には権力の表れでないこともありうる、ということが前提にあるはず。だから、フーコー的な問題設定において本来核心にあるべきなのは、では、いかなる場合に、どのような基準で、関係は権力的であるか、という区別が解明されることだと思う。つまり、なんでもかんでも五十歩百歩で権力なんだよ、という話ではなく、五十歩と百歩の距離はいかに、そしてどのような形式で存在するか、ということ。あるいは、許容可能で不可避な、あるいは必要でさえある権力作用と、容認できない権力作用の区別はどのようにして設定可能であるか。そういう意味では、フーコー御大がというより、専門外で引用する人が、(念のため、リンク先のことにあらず)たとえば監禁は悪だ、とか、精神医学は悪だ、というような形で使っていて、じゃあ、監禁や精神医学をいっさいなしの公正な社会を構想可能か、という問いには目をそむけているという気がする。