セクシュアリティの多様化

http://blog.tatsuru.com/archives/000777.php
セクシュアリティがその本来の必要性以上の社会的分類のためのマークとして機能しないようにすること、それこそフェミニズムやゲイの運動が目指していることなのだから、セクシュアリティが「類」としては意味を失うほど多様化して個性の一環としてのみ扱われ、それとして尊重されることは、何ら問題ないどころか目指すところだと思う。

(もちろんこのように多様化したマイノリティが連携することの困難という問題は生じうる)

内田さんは、あたかもセクシュアリティについてこだわることが、それを他と差別化するマークとしてみなし、その差に依拠したアイデンティティを求めることだと了解しているように見えるけれども、それは誤解だろう。そうではなく、本来すでに多様であるセクシュアリティを、グループ分けして、グループ分けのためのマークとして機能させ、グループごとに、セクシュアリティ自体とは関係がある必要のない社会的機能とリンケージさせる社会的システムが批判されているのである。そしてこのような意味で、識別マークとしてのセクシュアリティを「解体」することは、セクシュアリティを、無用なマークとしての役割から解き放ってあげることのはずだ。

またもうひとつの問題は、資本主義は、識別カテゴリーとしてのセクシュアリティをどんどん細分化させるだろうけれども、それは、「ストレート」という指向とマイナーなセクシュアリティとの間の階層的な位置付けを完全に保存した上でのことで、ストレートとマイナー・セクシュアリティという「大きな」差異が、セクシュアリティが本来担うべきではない社会的な(多くの場合階層的な)差異と連動させられるという事情にはまったく変化を与えないように思える。

参考 ぼくよりもずっと明晰なので。かならずしも同じようなことを言っているとはいえないと思うけれども。
http://d.hatena.ne.jp/using_pleasure/20050215#1108435239