しかしこのへんも

あれだ、公的領域=男性、私的領域=女性というバイアスが思いっきり入った物言いのような気もしてきたなあ。

うーん。

一人対多数という状況で、はた迷惑な恋愛を展開するという事態があるとする。
そこで人間関係が壊れたとしても、かならずしもその一人の責任ではない。
だから、その一人のことを、破壊をした人、クラッシャーと呼ぶのは、視点をひとつの見方に限定してゆがめるから、適切ではない。
ここまではいい。

そこから、たぶん、暗黙の前提がたくさん入ってくるから面倒になってくるんだな。

あと、個別ケースではなく一般論で責任論のようなことを論じる限界というのがある。まさしく、具体的な細部こそが、問題となるはずであるのに、と。一般論で責任論のようなことを論じる場合、否定的なこと、(かならず、つねに・・・であるとはいえない)しかいえない。そこを踏み越えてしまうと、逆方向の予断になってしまうだろう。

どうも、書けば書くほど混迷していくなあ、具体的なケースでどう判断するかという点では意外なほどぶれはないし、この単語がもたらすバイアスの問題についての評価はそれなりに一貫しているのだが、それ以上のことをいおうとしてしまうから、まとまらなくなるのだな。

現象自体についての評価としてはもしかすると実際に女性に問題があるケースが多いのかもしれないがわからない、だから決定的なことはいえない、ただし、その場合でも、男性の側にも問題があるだろう、そしてそれはむしろ組織論としてサークルの恋愛脆弱性として分析することは可能、ただしその場合でも脆弱性を表面化させた責任は問うことができるので、やっぱりケースバイケース、だから、現象そのものへの評価においては、つねに女性に責任があるとはいえない、という面白くもない一般論で究極的には終わり。

言葉への評価としては、女性の属性だけに着目させる効果があるという点で、それ以外に主たる原因があるケースにおいて、まちがった予断を与えるという、批判すべき効果を持つから、もっと別の言い方をするか、意味内容をドラスティックに変えるかすべき、というところ。こっちは、現象の内実がどうであれそれとは関係ない言葉のミスディレクション効果の問題。たとえば対策としては、男性に責任がある場合にはその男たちをクラッシャーと呼ぶとか。