りんり淋漓と天上大風
http://d.hatena.ne.jp/schillasal/20050829
ぼくとしては単純に言葉の定義の違いだけの問題とは考えていません。
つまり、どういう説得をしようと、「だからなぜそうしなければならないのか?」と常に問うことはできるわけです。
ぼくは、倫理を除きます、という文言というよりは、寄せられた回答に対する態度からして、この「だからといってなぜそうしなければならないのか」と原理的には常に問い返しうる、ということへの軽視あるいは無視がある、と考えたわけです。
なるほど、現実的な他者は、原理的につねに問い返しうるからといってつねには問い返さないわけです。つまり、実際にはまだ問う余地があるところで、なぜか現実的な他者は納得してしまうわけです。
で、もしも質問が、そういう現実的な他者を説得する論理を問う、ということなら、そもそも、普遍的な答えなんかないし、答えの間に優劣もないわけです。現実的な他者であるあのひとやこのひとは、なぜかどれかの答えで納得してしまうわけです。だから、原理的な問いではなく、現実的なカウンセリング的な問いなら、ケースバイケース、相手を見て理屈を考えるしかないんで、誰にも当てはまる、あるいは誰でも説得できるような一般的答えを求めるのはナンセンスです。質問の意図をきちんと踏まえたうえで反応すれば、これがぼくの回答です。そして、だからこそ、倫理を排除するのって意味あるのかなと思うわけです。むしろ、こういう現実的な説得の実際的な理屈を考える場合に、一般的に当てはまる誰でも同じ抽象的な理屈を持ち出すのは怠惰でしょう。
あー、というか殺さない理由なんて、特にないわけですよ。あるいは本当に千差万別な理由な殺さないわけですよ。殺すのを思いとどまる理由にもまた、何がなるかなんてわからないわけですよ。それを、この説得なら有効だろうという予断で臨んだって、結局、お説教なわけですよ。殺すな、と、いうしかない。それが倫理的態度だと思うんですよ。そして、そのとき、その言葉に重みという価値を与えるのは、いってる人間の人格とか、相手との人間関係の深さであるしかないわけです。「殺さないほうがいいから殺さない」やつは、ぜんぜん普通に条件がそろえば殺しうるわけです。殺すなという懇願・依頼は、懇願・依頼する人間にしか根拠がない。だから、その具体的関係の手前で言えることなんてないんじゃないかと思うわけです。
また、最近どうこういう以前に、もともと、説得の論理としては「倫理」というのは、太古の昔から無力なんですよ。なぜなら、もしそのひとがその倫理を内面化し、身に着けているなら、あらためて説得する必要はないし、そうでないなら、倫理を説得によって内面化させ、身につけさせることはできないんですから。これは信仰と一緒です。信じていない人には教義は根拠にならないし、信じている人には、教義を説得する必要はない。
で、原理的な問い、つまり、もはや「だから、そうだったとしたらなぜ駄目なんですか」と問い返すことが決してできない、必然的に説得させる論理を求めるのであれば、です。まあ、そうではなかったようなので、これは余談ともいえますが、しかし普通はこういうふうに文脈を読んでしまうことは避けられないと思うのだけれども、その場合、どこかで、無条件に「そうでなければならない」という話にならないと終わらない。そして、この突き当たる場所を倫理と呼ぶわけです。別にほかの言葉でもいいのですが。
で、それとは、別に、もういってん、ぼくが違和感を覚えたのは、ここまで書いたことと関連しなくはないのですが、功利主義的説得は普遍的に有効であるという前提です。というか、道徳を利益で根拠付けることができるという発想です。これはやはり、根本的なところで、普遍性のないというか無力な議論なんですよ。それが現代社会で有効であるように見えているのは、社会的に、みんなでそう思い込むことにしているからに過ぎません。実際には、何が利益か、得か、というのは、そのひとの道徳的見解によって無意識に規制されているわけで、功利主義的な発想というのは、本当は非常に、「道徳的」なんです。損を避けよ、得を選べ、というのは、プロテスタント的な、近代特有の「道徳的お説教」なわけです。そういう意味で、実際的有効性という質問の意図に即した文脈でさえ、殺したい人は「なぜ無意味で自分の損になるからやってはいけないんだ、むしろおれはだからやりたいんだよ」とこたえることは、十分にありそうなことです。