超越の事後性

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20051112
自己に死を与える場合に、神が要請されるというのは、ロジックとしてはわかります。ですが、殺人について敷衍できるかというと違うんじゃないでしょうか。現に人は外的条件によっては殺害をなしうるし、現になしてきたわけです。そしてそのさい、神は不要であった。不可能であるのは、他者を「他者として」殺害することでしょう。
しかし、他者を他者として殺すことの不可能性がたち現れる場を考えるとき、それは為されてしまった殺害という「事後性」のアスペクトにおいてのみ、でしょう。なぜなら、現在形においては不可能なことは端的に経験の内部に存在せず(可能事に無意識に自動的に変換されて経験され)、未然系においては不可能なことは想像界にとどまって、その不可能性は「問題」とはならず、ただ事後性においてのみ、「不可能なことであったのに実現された」という矛盾として現象します。これは柄谷的交換の不可能性にもいえます。そしてこの「事後性」における不可能性の「暗黒の中の飛躍」という矛盾を、事後性というアスペクトを超えて、未来・意志のアスペクトに投影してしまうとき、「決意性」のファシズムロマン主義が生成するのではないでしょうか。しかしこれは、或る意味で、偶像崇拝とでもいうべきものではないか。

つまり、事後性においてあらわれる超越、絶対性、あるいはその不可能な飛躍、というのは、或る点では事後性自体が引き起こすファントムなのですが、ともあれ、過去が動かしがたい、という点が、その「絶対性」の基礎となっている、ひとつのザインです。

しかしこれが意志・未来のアスペクトに投影されてしまったとき、このザインはゾルレンに化してしまっている。人を殺すことは神にしか可能ではない、だから私は神であったはずだ、という事後性のアスペクトの元でのロジックは一定のリアリティと根拠を持ちますが、ゆえに人を殺すためには神になる必要がある、と敷衍した途端に、倒錯が始まります。

未来・意志のアスペクトにおいては、神や超越は、イマジネール、鏡像イメージ、想像的なるものでしかない。そこには、本質的には不可能性は存在しないのです。

思うにこの倒錯は、暗闇の中の跳躍を意図してやろうとか、世界は平坦な戦場だから馴れ合わないぜ、とか、戦場にすべきだ、とか、コミュニケーションは不可能なのだから、コミュニケーションしないよ、といった種類の一時期見られた倒錯と類を同じくするもののように見えます。

ヘーゲル的目的論ということはつまり、結果から逆算して、あたかもそれが、あらかじめ決定されていたかのように、「事後性を未来へと投影すること」じゃないでしょうか。

事後性をめぐるこういう議論は、それほど目新しいものではないのですが、展開されている議論につなげて考えられそうに思えます。