失われた時を求めて、の囚われの女、と、蟲と眼球と殺菌消毒、を読んだ、読んでいる。途中なのは前者。

日日日は面白い。かなりはまっている。いま一番なのは凶華様だろう。それで、これはどういう高いハードルなのかわからないけれども、それでといっても、殆ど文脈と関係ないのだけれども、ヴィルパリジ老侯爵夫人と、極上生徒会のれーちゃん先輩との間には共通点がある。形容詞を三つ繰り返すところだ。

程度をあらわす副詞がかなりとかすごくとか、非常に退化していていかんともしがたい。これは明白な言葉の衰亡だ。

涼宮ハルヒの憂鬱について、セカイ系という指摘をするのは間違ってはいないが安易で、そこに批判とまではいかないが意識的に表面的構造として採用しているという事情があるのだから、そういう表面の構造を採用させている事情まで届かなくては、誰でも言える指摘に過ぎない。

ところで、神人について、使徒とかシシ神さまとか言っておいて、巨神兵に誰も言及しないのはどういうわけだと。(後で確認したら数人言及している人がいた)いうまでもなく、巨神兵ナウシカの/クシャナの子供という側面があった。腐り落ちていく巨神兵のフォルムの美しさ。

ハルヒは全能なのだから他者がいない、というべきではないのは、彼女にとって彼女こそが他者だからだ。自らを知ることができないのは、キョンや組織などの気遣いや努力によるものではない。彼女は守られている、保護されている、限定された領域内での裸の王様なのではない。そのような図式は、まさしく、そのように思いたいキョンや組織の(意識的な行為や理性の側に立つ、あえていえば男性的な)語りが擬制しているものにすぎない。彼女が彼女の真実を知らないのは構造的なより根本的な問題なのだ。原作読者は知っているが、キョンは一度真実を彼女に語っており、彼女は信じなかったのだ。ハルヒはむしろミダス王の立場にいる。

もちろんここから精神分析で人は己の欲望の真実を知りえないという在り来たりの命題にいくとものすごくつまらないのだけれども、本来の原作のテーマが時間テーマであるということ、そしてみくるの重要性、この二つの契機が割愛されざるをえないということは、やはり、アニメに一定の限界を課している。

時間テーマというのは、非常に、どうしても、狂気に関する命題なのである。

眼球抉子でグリコってセンスが大好きだ。

しかし、ここでわたしの接続詞の選び方が出鱈目であるということが露呈されつつあるのだけれど、蟲と眼球シリーズは、もうひとつの傑作「悪魔のミカタ」シリーズを想起させる。

谷川流にとって可能世界と固有名詞性と時間テーマという、クリプキというか永井均的というかライプニッツ的というか、相互に強く関連しあったテーマは基本的な重要性を持っている。ここで、不安な自己同一性というテーマはどうしても見なければならないだろう。同じ私であるということはどういうことなのか。改変された世界での貫世界同一性はどういうものか。

SOS団の日々をハルヒの視点で見るとき、それはまさしく完全に光画部的日常だろう。過剰な意味付けによって日常に無理に意味を付与していく試み、つねに見立てを繰り返し、世界を物語化しつつ、たまさかそこにその物語をもしやと信じつつも、結局は信じてはいない。あるいは、「あるとしかいえない」という名コピーのような日常。制御できる物語を享楽する主体たらんとする欲望。

したがって、むしろ、キョンにとっての真実は、ハルヒにとって無意識の恐怖の対象なのだ。なぜならそれは、「現実」なのだから。かなってしまう願望ほど恐ろしいものはない、というのは、最近のライトノベル作家が、期せずして語っていることではなかったか。それは、それが魅惑の対象であるのと同じことだ。フィクションを楽しんでいたらそれが現実だった、それは冷やりとする恐怖だ。小泉の組織が、理性を代理するというのは、より根源的な意味においてそうなのだ。

組織と芝居のテーマというのは、自我=理性が、本当に恐れているアブジェクトなことが現実化しないように別の耐えられる恐ろしいことを好んで想像し=実演してしまうというメカニズムと相同的だ。

ハルヒに願望実現能力があるという前提なら、ハルヒこそが語られることを望んでいないという議論も成り立つということに気が付くべきではないだろうか。

ところで実際、みくるは、いきなりものすごい鬱展開の主人公になっても全然おかしくない。日日日みたいなもっと残酷展開な作者なら、むしろ発狂フラグが立ってるくらいだ。実際には物語りのトーンからいってそこまではいかないだろうけれど。このことはいくら強調されてもいい。

ハルヒが日常を受け入れることが成長という視点には実際には根本に欺瞞がある。なぜなら、彼女の本当の現実は実際には侵食された日常であって、もはやいわゆる日常ではないからだ。したがって、むしろ、彼女が作り出そうとした「新世界」こそが、「不思議が排除されたいかにもな日常」だったのかもしれない。それはわれわれの現実とも微妙に違うだろう。なぜなら、われわれの現実もまた、侵食された日常だからだ。「完璧な日常」というのは、逆説的だけれども、物語の中にしかない。そしてこのことは、もちろん「消失」でほとんど完全な形で語られた。

もちろん、ハルヒトータル・リコール解釈というのはつねに成立する。

ところで、こうしたことに自覚的な作品としてフルメタをあげることは唐突だろうか。とくに最近の展開において。

これも関係ないがプルースト井上究一郎訳はものすごく読みにくい。断然、鈴木道彦訳。あと、女性に感情移入して読んでいると、語り手いやなやつだなあ。

学園祭の回の冒頭、おそらく異世界人であろう人影がうつっている。着ぐるみではないと思う。ただし原作とは姿が違う。

ハルヒの能力と「星へ行く船」。

ねらわれた学園」と朝比奈みくる。「時かけ」ではなく。高見沢みちると名前も似てるし。

ところで青空文庫に「私は海を抱きしめていたい」が入っていた。ユーモアたっぷりの「勉強記」や「金銭無情」もおすすめだけれども、こういう、ややもすると感傷的なものも、けっこういい。

http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42909_23103.html

これはもう別の話題で、欲望について、欲望は幸福との関係で生まれるものではない。幸福や快楽といった素敵な状態を享受することが欲望の目的ではないのだ。これはいわゆる「功利主義」がすべて勘違いしているところだと思う。欲望とは欠如の子であって、幸福の子ではない。欲望には厳密にいえば目的は無い。単にそれをしてしまうということ、それが欲望だ。

目的とするすばらしい状態や、その状態を想像することは、全然前提ではない。欲望は幸福をかなえたいのではない。それをしたいのだ。

つまり、意味も理由も目的も無く、単にそれを私にさせるもの、のことを欲望という。そして、幸福や快楽というのは、欲望にとってぜんぜん前提でも関連項目ですらない。ひとは不快や不幸を欲望する。もちろん、欲望されたものを、欲望されたということから、「定義上」、幸福や快楽として解釈することはできる。でも、それは都合のいい言葉の操作でしかない。

原理的には、快楽と欲望の間には、関係は無い。単に、二つが連結されているのは、結果として快楽を実現する事が多い欲望を人間が所有しているからで、このときの快楽や幸福と欲望との間の関係は、「たまたま、進化の過程で連結された、蓋然的な、非本質的な」つながりにすぎない。いいかえれば、たまたま、幸福や快楽につながりやすい欲望をもつ生体が生き残りやすかっただけなのだ。それ以上の意味は無い。


http://d.hatena.ne.jp/PEH01404/20060703

http://d.hatena.ne.jp/ontai-producer/20060705